なぜオタク第三世代は難民化したのか 動物化論の限界 その2

pikarrr2008-07-23


6)「祭り」という合法的享楽装置の日常化


だから「政治的な動物化論」を成立させるために、動物化は欲望を解体し欲求へ導く脱構築装置」であるとともに、享楽を充足させる「合法的な享楽装置」である必要があります。

「合法的な享楽装置」として一般的なものが「祭り」でしょう。「祭り」そのものは社会に埋め込まれたものです。たとえば神に祈り、神へ贈り物を捧げるというのは、自然の恵みを贈与されたことへの返礼であり、今後も継続するための贈与です。これによって贈与の円環としての社会(象徴界)に神を引き入れていますそして共同体の秩序を確認し、結束を強めるものです。

しかしバタイユ「制度化した宗教およびその儀礼以前の原始的な祭りにはこのような贈与の円環をはみでる非生産的な<消尽>(純粋贈与)があることを指摘します。

バタイユの考えでは、原始社会の「交換」は、功利的な意味合いを持たず、有用性と結ばれていない。・・・原初の人々は・・・生存を維持し、再び労働できるために自分たちで消費した。だがその前にまず<初物を捧げる>という仕方で、精霊たちや神々に奉納する祭りを行った。

富を消費することが、再び生産活動が円滑に運ぶためにという目的を考慮して実行されるのではなく、非生産的なやり方で消費されることになる。・・・それゆえバタイユは・・・<消尽>と呼ぶ。

しかし<神々に捧げる物を贈る>祭りは、次の飼育や収穫でも豊饒であるよう祈願しているのではないか。再生産がうまく運ぶように気づかっているのではないか。・・・だが<豊饒の祈願>という観念は、もっと後代の<制度化した宗教およびその儀礼>から逆向きに推論して抽出した観念である。P105-106


バタイユ 湯浅博雄 (ISBN:4061597620

多くの祭りにおいて重要であるのが「リズム」です。太鼓などの反復するリズムと踊りの中で人々は陶酔(トランス)状態にいたります。祭りの興奮は集団的な効果によって生まれるものですが、そこに生まれる陶酔(トランス)状態は言語(制度、儀礼)を超えた身体的な興奮です。

そしてその先に日常では禁止(タブー視)されたものが開放されます。<消尽>もまたこのような非日常性の開示を意味します。ここに享楽へ近接するという「合法的な享楽装置」としての機能が見出す事ができます。祭りは、年に一度、享楽を開放することを許すことで、日常の閉塞を開放する役割をしていました。それが共同体の秩序の中で反復される日常を支えていたと言えます。

現代は、日常が劇場化、祝祭化している言われます。街は舞台であり、祭りのようです。また家庭ではテレビからバラエティという祭りが映し出されます。もともと正月のみに許された無礼講おちゃらけ番組が80年代以降、バラエティ番組としてテレビを席巻しました。さらにお笑いに顕著なように興奮の瞬間性は増しています。一瞬の狂気(ギャグ)によって笑いが生まれるということが言語を超えて体感化しています。

こられも「不可能性の時代」に関係するでしょう。大きな物語の凋落、欲望の希薄化によって享楽に近接する。その場のノリ、興奮によって、集団的な陶酔(トランス)を生み出すとともにリアリティを感じる。現代は従来の「合法的な享楽装置」としての祭りが日常化しています。




7)合法的享楽装置としてのネット、オタク文化


動物化と言われるところには「合法的享楽装置」としての一面があるのでしょう。たとえばオタクは動物化していわれるときも同様です。斉藤環はオタクが戦闘美少女へ萌えるときに「享楽」へ近接していることを指摘しています。

世界がリアルであるためには、欲望によって十分に帯電させられなければならない。欲望によって奥行きが与えられない世界は、いかに精密に描かれようとも、平板で離人的な書き割りめいたものになるだろう。しかしひとたび性的なものを帯びた世界は、それがいかにつたなく描かれようとも、一定のリアリティの確保することが出来る。・・・ファリック・ガール(戦闘美少女)は、虚構の日本空間にリアリティをもたらす欲望の結束点である。彼女に向けられた欲望こそが、その世界のリアリティを維持する基本的力動に他ならない。

対象にリアリティを見いだすとき、われわれは享楽の痕跡に触れている。言い換えるなら享楽は、到達不可能な場所におかれることではじめて、リアルな欲望を喚起するのだ。・・・ファルスは享楽のシニフィアンと見なされる。ファリック・ガールが戦闘するとき、彼女はファルスに同一化しつつ戦いを享楽し、その享楽は虚構空間内でいっそう純化されたものとなる。・・・ファリック・ガールに対しては、われわれはまず彼女の戦闘、すなわち享楽のイメージ(リアリティ)に魅了され、それを描かれたエロスの魅力(セクシュアリティ)と混同することで「萌え」が成立する。


戦闘美少女の精神分析 斎藤環 (ISBN:4480422161) 参照:http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060615#p1

動物化の特徴は、人間くさいものは嫌われ、無機質なものが好まれるという他者回避に特徴があります。たとえばオタクの萌える対象である二次元ロリキャラは、基本的に「人形(フィギュア)」でしょう。だから容易に機械や戦闘と結びつきます。

機械は本質的に身体の拡張として発達すると言われます。機械が生み出す周期的なリズムと力の増幅は全能感とともに陶酔(トランス)を呼び起こします。たとえば車を運転して速度を上げるとき、どこまでもイケそうな快楽は享楽的な面を持ちます。オタクは機械化された「戦闘美少女」「セカイ」を破壊することにある種のエクスタシーを感じとき、合法的享楽装置が作動していると言えます。

また2ちゃんねる掲示板と言われますが、多くにおいては即時的にレスが繰り返されるチャットです。さらにVIPではチャットも超えて、コミュニケーションのるつぼであり、どこまでコミュニケーションする内容が交換されているわからない中で、レスが交換されてつづける、そのリズムに陶酔的な快感がうまれます。それはまさに「祭り」です。「炎上」もまた確信的な「祭り」の発生を楽しんでいるといえます。

あと最近のクラブミュージックでは、テクノ、トランスなど、歌詞は排除され、終わりないリズムの繰り返しが陶酔を生み出します。原始音楽(祭りの音楽)への回帰のような傾向があります。このように考えると、ニコニコ動画は、オタク系ロリキャラ、機械声、ダンスミュージック、疑似共時的な大量のレスと、まさに合法的享楽装置の要素がそろっているのは驚きです。




8)なぜ「加藤」はオタクへ突入したのか


「政治的な動物化論」、人々は動物化によって充足することができるというのが、東浩紀の意見でした。それに対して宮台真司は充足しきれずにオチこぼれる人々がでてくるので、再度、社会性(象徴界)のようなもの(サイファ)を再生する努力が必要であるということです。

その中で秋葉原無差別殺傷事件が起こりました。この事件について東浩紀下流からのテロだといいましたが、あれがテロとすれば、オタクへのテロではないでしょうか。「オタクになれば動物化して充足するといったじゃないか!」と、秋葉原(オタク)へと突入した。そこには逆切れであるとしても復讐があった。

これは「加藤」だけの問題でしょうか。この事件で重要であるのは、「加藤」が有望な動物化装置であるはずの、オタクとネットに没入していたということです。「加藤」が暴露したのは、オタク、ネット文化の合法的な享楽装置としての危うさではないでしょうか。

たとえば電車男を例にいえば、あの物語で重要なことは、オタクはキモいということです。そこにあるのは「一般人(普通)」との差異です。この卑下こそが逆説的にオタクのアイデンティティを支え、オタクコミュニティの団結を生んでいた。すなわちオタクはオタクを欲望していたということです。

これは2ちゃねらーにもいえるでしょう。モラルのある「一般人(普通)」に対して、モラルのないキモい人々としての2ちゃんねるが、マスメディアに取りあげられ、社会的な影響を与えることがおもしろかった。そこに2ちゃねら−としてのアイデンティティとコミュニティが生まれました。

しかし電車男以降、みながオタクに、アキバにそして2ちゃんねるに殺到し、「一般人(普通)」との差異が解体され、オタクがもはや欲望の対象でなくなり、アイデンティティもコミュニティを維持できなくなったとき、合法的な享楽装置としての機能も消失しました。その中で加藤は管理不可能な享楽へと落ちていった。

合法的な享楽装置は欲望、社会性を担保にして、はじめて作動することができる。だからオタクたちはたえずマイノリティとして「一般人(普通)」差異化された位置を確保しなければならない。しかし、人はそう簡単に次々にアイデンティティを見出した場を移れるものでしょうか。そこには世代論が生まれます。オタク第三世代は、自らを場から引っぺがして、ニコニコ動画などの第四世代へ向かうことはそう簡単なことではないでしょう。

「加藤」の例は極端な例であったとしても、「萌え」自体が消費され死語になり、合法的な享楽装置としての機能を果たさなくなりつつある中で、オタク第三世代は難民化しつつあるのではないでしょうか




9)難民化するオタク第三世代


たとえばオタクは趣味に労力を割くのだから、生産的な労働そのものは重視されず、下流になる可能性が高いでしょう。それでもオタクが動物化するという「政治的な動物化論」には、当初、単純な労働も、退屈な日常も、オタクという満足によって充足するという楽観論があったように思います。

さらに現在、格差社会を生み出しているネオリベラリズム新自由主義)でさえも動物化「環境」とされました。多少貧しくても、好き勝手にやらしてもらえる「消極的な自由」によって動物化して充足するはずだと。

しかし「萌え」による合法的な享楽装置としての機能が衰えるとともに、また経済的に下流としても取り残されてしまった今、「金がなくてセカイに閉じこもれねーよ!」「動物になれねーよ!」「政治に興味持たないでいたらすごい若者に損な政策ばっかやりはじめたよ!」というクレームを噴出しはじめています。あるいは最近のブログ上の政治的な発言や、新たな思想誌ブームは、難民化したオタク第三世代の転向が生んでいるのではないでしょうか。だから彼らの言説にはどこかセカイ系の香りがする。

動物化が合法的な享楽装置として機能するためには、その基盤として新たなニッチ(タブー)へと移動し続けなければならない。そしてその「差異化される運動」の中でそのときに絶えず難民が生まれるでしょう。それは従来ならば「大人になる」ということかもしれません。

しかし大人になるための「去勢」するほどの大きな物語は存在しない、また経済的に下流で固定化されてしまうとすれば、「政治的な動物化論」は破綻してしまっているだけではなく、閉塞してしまう。




10)<帝国>という脱構築and合法的享楽装置


ネオリベラルリズム(新自由主義)−ポストモダン−生政治−動物化は、ネグリ−ハートの<帝国>論におけるグローバルな世界観でしょう。

国民的な枠組みを超えて諸国にまたがって産業・金融部門で活動する企業が、生政治的な仕方で現実にグローバルな規模の領域を構造化しはじめたのは、二〇世紀後半になってからのことにすぎないのだ。・・・投資を選択し、金融と通貨に関する作戦行動を指示する複合的な機構が、世界市場の新しい地形、より実情に即した言い方をすれば、世界の新しい生政治的な構造化を決定するのである。P51-52

ポストモダニズムの思考やその中心的な概念が、資本に固有の実践と理論からなるざまざまな領野−マーケティング経営管理組織、生産の組織化といった−で繁栄しているのも驚くべきことではない。ポストモダニズムは、じっさいのところ、それによってグローバルな資本が作動する倫理なのである。P198-200

資本主義市場が、内部と外部を分割しようとするあらゆる企てにつねに逆らいつづけたきてひとつの機械であるということをここで思い起こしておくのが有益であろう。資本主義的市場は障壁と排除によってその運動を妨げられ、またその逆に、自己の領域の内部によりいっそう多くを包含しつづけることによって栄える。・・・そして資本主義市場のこうした傾向の到達点は、世界市場の実現によって画されることだろう。その理念的な形態においては世界市場に外部は存在しない。地球全体がその領域なのである。私たちはは世界市場の形態を、<帝国>の主権の形態を完全なかたちで理解するためのモデルとして使用してもさしつかえないだろう。P246-247


<帝国> アントニオ・ネグリ マイケル・ハート (ISBN:4753102246

ネグリ−ハートは<帝国>に対する抵抗として、マルチチュード(群衆)をみいだすそうとしています。しかしマルチチュードは誰なのか。テロリスト、あるいはオタク、2ちゃねらーはマルチチュードなのか。

マルチチュードが必ずしも<帝国>に対する「政治的な」対抗として見いだせるのか疑問があります。マルチチュードが<帝国>という閉塞に対する合法的な享楽装置としての機能するとき、それは<帝国>を維持するための必要条件でさえありえます。この場合に、ボクたちはどこに<帝国>に対抗する言説を見出すことができるのでしょうか。

動物化を単に怠け者の行為として片づけることができないのは、このような<帝国>という脱構築and合法的享楽装置は、経済的な格差とともに構造化されつつあるということです。そしてこのような視野にたつとき、動物化論という底の見えない穴の前に立っていることに気づくのです。




11)ポストモダン・欲望論言説の限界


メタ位置に立ち言及すれば、動物化論の限界とは、欲求、欲望、享楽というポストモダン的欲望論の限界でしょう。欲望論の対抗としての動物化論もまた欲望論の圏内でしかなく、<帝国>論に回収されてしまう。だからボクたちは新たな言説を必要としています。それは享楽的な「キレた」衝動ではなく、継続する「怒る」実働的言説です。そのためのキーワードは「労働」にあると思っています。それは左翼的なものではなく、「労働」とは日常に関わり続ける実働です。

毎日新聞変態報道問題はいままでになく執拗で実行的です。「炎上」がネットから日常へ移ってきているように感じます。そこにあるのは享楽ではなくほんとうの「怒り」はあるのでしょうか。
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*1:本内容は2ちゃんねる哲学板「東浩紀スレッド132」http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1216312678/において、id:naoya_fujitaさんとの議論にインスパイアーされたものです。参照 「動物化論再考」 - the deconstruKction of right  http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20080719/1216424025

*2:画像元 http://www.chuokai-chiba.or.jp/ohara/maturi/hadaka/maturi.htm