なぜ知識人は「希望は、戦争。」に動揺するのか 戦争の消失1

pikarrr2008-07-24


「希望は、戦争。」への動揺

私たちだって右肩上がりの時代ならば「今はフリーターでも、いつか正社員になって妻や子どもを養う」という夢ぐらいは持てたのかもしれない。だが、給料が増えず、平和なままの流動性なき今の日本では、我々はいつまでたっても貧困から抜け出すことはできない。・・・それなのに社会は我々に何も救いの手を差し出さないどころか、GDPを押し下げるだの、やる気がないだのと、罵倒を続けている。平和が続けばこのような不平等が一生続くのだ。そうした閉塞状態を打破し、流動性を生み出してくれるかもしれない何か――。その可能性のひとつが、戦争である。

識者たちは若者の右傾化を、「大いなるものと結びつきたい欲求」であり、現実逃避の表れであると結論づける。しかし、私たちが欲しているのは、そのような非現実的なものではない。私のような経済弱者は、窮状から脱し、社会的な地位を得て、家族を養い、一人前の人間としての尊厳を得られる可能性のある社会を求めているのだ。それはとても現実的な、そして人間として当然の欲求だろう。

そのために、戦争という手段を用いなければならないのは、非常に残念なことではあるが、そうした手段を望まなければならないほどに、社会の格差は大きく、かつ揺るぎないものになっているのだ。


丸山眞男をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」 赤木智弘 http://t-job.vis.ne.jp/base/maruyama.html

「希望は、戦争。」という言説に反応したのは知識人であった。その動揺はボクたちからすれば予想以上だった。それは知識人が知識人としてもつリベラルな倫理、「それでもみな自由と平等でなければならない」を攻撃するからだ。この動揺は資本主義システム、いまなら<帝国>において、知識人のリベラルな倫理も重要な生政治的な機能を果たしているということを暴露する。




「現実が、戦争。」


最近はグローバルな管理問題として環境問題が語られるが、同様な問題として人口問題がある。しかし人口問題はグローバルな管理問題として語られない。それは生と死は宗教もからむ倫理的な問題であり、一元的には処理できないからだ。それとともに出生率などの人口問題は経済力、政策など国家との関連が強い。だから国家ローカルの問題である。

ならば人権はグローバルに等しいとリベラルにいえるだろうか。家族計画により少人数を大切に育てる先進国と、国が貧しく避妊の手段なくつぎつぎと子供を生む途上国において、人権は等しいのだろうか。ここでリベラルの臨界(タブー)に触れている。

「希望は、戦争。」では逆説的であるが戦争により流動性を高めてリベラルを達成するという期待がある。ナショナリズムはその極限でリベラルを解体する。自国民優先主義において、リベラルの範囲を生物学的レベルから国民に縮減する力が働く。

これは暴論だろうか。このようなナショナリズムはリベラルよりも日常である。ジンバブエでいくら人が死のうがアキバで人が死ぬほうがリアルであるし、海外での飛行機事故で日本人がのっていなければニュースにならないのだ。

知識人ではないボクたちはあっさりという、「いまや先進国内での戦争は非経済的だから起こらないよ。誰もが幸福になる社会などないだろう。現実が戦争なんだよ。甘えんな。」
*1