なぜiPhoneに魅力を感じないのか 「配置(disposition)」の思想性1

pikarrr2008-07-25


なぜネット小説ではなくケータイ小説なのか


最近、文章が長くなってもはやブログとして読む量を超えているなと思います。なにか長文でも読みやすいレイアウトはないものでしょうかね。そもそもPC画面はテクストを読むのに適していないですね。ボクはPC上で長文のテクストをじっくり読みたい場合は、テクストエディタに文章をコピペして色づけなどのマークをつけながら読みます。ただ目で追っていくだけでは集中力が続かないです。

案外、テクストを読みやすいのはケータイです。画面の幅が狭く目で追いやすい。ネット小説ではなく、ケータイ小説が流行っているのは、このようなアーキテクチャの特性によるのかも知れません。逆にケータイで読みやすく、面白くなるような文学形態とはないか、というかたちで、アーキテクチャによる「配置(disposition)」ケータイ小説というものを作り上げる面があります。

ケータイ小説 出典:『ウィキペディアWikipedia)』


ケータイ小説とは、携帯電話を使用して執筆し閲覧される小説(電子書籍)のことである。よってネット上の小説投稿サイト等において発表されるオンライン小説とは媒体の違いという意味ではっきりと区別される。

画面上の特徴・・・携帯電話での執筆・閲覧となることから、創作においてはまず1画面サイズ上の表示文字数による制約を受ける。そのため、本来の文法作法に則らない。改行の多用。文章表現の抑制(修飾語を減らす等)。括弧書き(登場人物の会話や台詞)の多用。といった、記号化に似た特殊な記述方法がとられることが多い。




「配置(disposition)」の思想性


このようなアーキテクチャに関する人間工学的、環境管理技術的なものを、最近の流行?の言葉で「配置(disposition)」といいます。

世界は配置(disposition)であり、人間は自らを取りまく配置によってたえず態勢づけられている(disposed) 

ギブソンのレイアウト(layout)、フーコーの装置(dispositif)、ドゥルーズの配置(agencement/arrangement)といった諸概念は全て、世界や人間を諸要素の配置(disposition)として捉えることを可能にするコンセプトである。これらの概念は、世界を、人間の意識によって総合される表象ではなく、生物としてのヒトを取り囲む環境として捉えることを可能にする方途である。


http://dan21.livedoor.biz/archives/cat_64926.html

ボクは「配置(disposition)」を単に生物的、身体的な関係と捉えることはできないと思っています。それはマルクスジジェク的な物象化の面でも捕らえる必要があると思います。「配置(disposition)」には思想が具現化されている、ということです。だから身体的な関係だけではなく、精神的にも深く影響を及ぼしています。

マルクスの分析の眼目は、主体ではなく、物(商品)それ自体がおのれの場所を信じている、という点である。つまり、信仰や迷信や形而上学による神秘化は、合理的で功利的な人格によって克服されたかのように見えるが、じつはすべて「物どうしの社会的関係」の中に具現化されているのである。人びとはもはや信仰をもっていないが、物それ自体が人間のために祈っているのだ。・・・むしろ、信仰こそ根本的に外的なものであり、人間の実用的・現実的な活動の中に具現化されているのだ。P55


イデオロギーの崇高な対象」 スラヴォイ ジジェク (ISBN:4309242332




ケータイの自己組織的な「配置(disposition)」


このような意味でもボクは、iPhoneに魅力を感じないのですね。すでにケータイが普及した強力な「配置(disposition)」の中で、それにとけ込もうとする配慮もなく、また対抗できるだけの強力な「思想」も持っていないと思うのです。

確かにケータイは誰かの強い思想が反映されているということではないと思います。それほど深く考えずに発売すると、あれよあれよと一気に誰もが持つアイテムに成長した。むしろ制作者は後追いで試行錯誤として開発を続けている感じがあります。それに対してiPhoneはアップル開発陣の強烈な「思想」が反映されています。信者はその強力な「思想」に引きつけられるのだと思います。

しかしケータイは試行錯誤という自己組織的に発展することでもはや現代人のライフスタイルや人間関係の在り方に欠かせないものとなっています。そこに「配置(disposition)」としての強力な「思想」が根付いています。このような在り方をネット的にはWeb2.0的というのかもしれません。その意味でトップダウン的な「思想」を提供するiPhoneのあり方は昔懐かしいような感じさえするのですね。

正直なところ、音楽プレイヤーの部分についてはiPhoneに敵う端末はないと思うが、インターネットマシンとしてみたときに日本のケータイの便利さはまだまだ群を抜いている。これは端末だけがすごいんじゃなく、日本のケータイインフラにコンテンツ側もきちんと対応してきた結果生まれた状況だ。


iPhone 3Gはインターネットマシンとして見ても微妙? ガラパゴス・ケータイはやっぱりすごかった - キャズムを超えろ!http://d.hatena.ne.jp/wa-ren/20080716/p1


ちなみにここの文章の多くの下書きはケータイで書かれています。だから誤字脱字の多さもある種の「配置(disposition)」ということで・・・ケータイ小説のつぎに「ケータイ思想」が流行らないでしょうか。電車の中やちょっとした休憩にケータイからこのブログを楽しみたい方はこちらからどうぞ http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/archivemobile
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*1:参考 「ディスポジション―配置としての世界」(ISBN:4773808063

*2:画像元 http://ocnspecial.blogzine.jp/weekly/2006/01/post_9e25.html