ボクたちは戦争が消失した世界をいかに生きるのか 戦争の消失2

pikarrr2008-07-26


戦争という「合法的な享楽装置」


共同体を維持するためにその閉塞から出る不満を外部へ転換させる方法はいまでも「大衆のガス抜き」として有用な政治的な方法である。その意味で、戦争は祭り以上の「合法的な享楽装置」の役割を担ってきたのではないだろうか。

いまでもスポーツで思い入れの強いチームの試合は血がたぎり、熱狂する。それが自らの命をかけ、コミュニティの存亡をかけて戦うとなれば、これほどの興奮があるだろうか。戦争は「合法的な享楽装置」として作動してきた。そしてそれによってまた共同体の秩序を維持するよう働いた。封建的な階級性や、男尊女卑などの社会秩序の維持においても、戦争は重要な社会の一部であっただろう。




戦争の終わりと祭り化した日常


それが一変したのは近代以降だ。科学技術の発展によって、武器は強力な「兵器」にかわり、そして巨大な暴力の集中化は国家を生み出し、戦争は国家間の戦闘となった。そして戦士は兵器の一部品という「兵士」となり、戦場において相手が何者で自らが何者であるかというコミュニケーションが欠落する。戦争における死に意味がなくなることで、凄惨で冷たいものになってしまった。

さらに世界大戦においては、仮に勝ったとしても相手を征服し経済的な見返るがえられるわけではなく、また戦火が自国に及べば、経済的なシステムを破壊され、多大な損害を被る。それはまたその後の国家間の経済戦争にも不利になる。すなわち戦争はあまりに非生産的な行為になってしまった。

二つの世界大戦を経験して、これらの教訓から戦争は消失した。正確には先進国間の戦争は消失した。たとえばアメリカがベトナムイラクで行ったことは戦争ではなく、世界の不安定領域への「治安行為」なのである。だからそれによってアメリカ自身が戦場になることはない。

ボクも戦争には反対であるが、もはや戦争がないことも確かである。そして戦争がない世界をいかに生きるのかというのは、現代人にとって本質的な問題である。戦争が消失した後に来たのが経済を活性化する狂気的に祭り化した日常であることは偶然ではないだろう。
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*1:なぜ知識人は「希望は、戦争。」に動揺するのか 戦争の消失1 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20080724#p1

*2:画像元 http://destiny-one.spaces.live.com/blog/cns!AC610396970809CD!1059.entry