なぜ下流はサヨク化すべきなのか

pikarrr2008-07-28

pikarrr
ボクが思うのは、いまの下流はあまりに国家に頼ろうとしすぎていると思う。制度としてどうにかしてほしい。これはわがままに近い。国家にはそこまでの力はない。下流は自らなんとかしなければならない。それは下流たちが団結することしかない。引きこもって親のすねかじって、ネットカフェにこもって、日雇いで一人で、お国様なんとかしてくださいな、は甘えでしかない。

いまの下流は他者との関係が苦手だし、政治運動みたいなことでなにをすればよいかわからないというけど、結局、本当に追いつめられれば、そのようになるしかないし、現に最近、若者の政治的な発言が増えてきている。いまは過渡期で、政治の時代に再びやってくるんだろうね。

バブル後のいままでの引きこもり、動物化天国が異常な状態だった。結局、日本は豊かだったんだな。引きこもりも親がまだ豊かだったからできた。それも難しくなっているでしょう。下流が団結し怒る、という普通の世界に近づきつつある。

考える名無しさん
むしろ、それでは、必ず負ける見込みがある。だから、(無理を承知で)今のうちに国に助けを求めている、と見るのが正しい。

ていうか、国家に限界があるからなんだと言いたいんだろうね。そんなこと言うんだったら、なんで個人に限界があることに着目しないんだろう。国が助けられないんだったら、個人ではもっとどうにもならない奴がいっぱいいるだろう。

pikarrr
最近の若者のウヨク化、ネットウヨクなどと言われているが、ウヨクと言うほどのことはなくて、単に不満を韓国などに迂回させているだけ。それもそれは政治的なものではなく、単なるストレス解消のレベル。

やはり下流は、サヨクを目指さなければならない。サヨクは、必ずしも共産主義を目指す事ではなく、下流が団結し、社会へ発言する技術として有用性がある。最近、蟹工船が流行ったり、共産党員が増えたり、組合が派遣の労働条件改善に力を入れたりするのは良いことだと思う。

「弱い者は助け合う」という自然の摂理とも言えることを、求める事、そこまで追い込まれて、はじめて真の下流と言える。「弱い者は助け合う」ことは、生物学的にいえば弱い動物は群れをなすということだ。

国家に限界があるし、個人にも限界があるし、必ず誰かが負けて下流は存在し続ける。こんな当たり前の事を議論するつもりもないし、これらを乗り越えられる社会設計を夢想するユートピア幻想に意味はない。

ようするに、日本も当たり前に普通の国になりつつあるということだろう。下流の貧困レベルもグローバルスタンダード化しつつあるのだから、下流も不満をサヨク化して主張するようになるべき、というか、なるしかない、というか、なっていくだろう。

政治が格好悪い、他者の協力はめんどくさい、好きな事をしていたいというポストモダンの時代は、自然と終わりつつある。

考える名無しさん
「弱い者は助け合う」ことを自然の摂理だと思えることは立派なことだと思うけど、「自然」な現実は「弱い者たちは夕暮れさらに弱いものを叩く」ものでもありますよ。韓国などに迂回させるのは、直接的に自分達に関与せず、自分達の言説空間内で敬意を表すべき情報が十分に流布していない国が、「(まったく影響力をこちらに行使してこないという点で)最弱」だからでしょう。別に迂回なんかしてません、そのまんまです。ストレス解消のレベルではなく、思想的レベルです。政治的な意図はありませんが、政治的現象です。

「必ず誰かが負けて下流は存在し続ける」と考えるのは、事実と思想の混同なんです。それは、競争主義の名で呼ばれているが、実質は「争奪主義」とでもいうような考えに影響されているんです確かに、何らかの意味の競争は残り、そこで負ける人は出てきますが、それを現在の社会にあるような仕方に限定してとらえる必然性は、どこにもないんです。勝った人が負けた人と協力して何が悪いんです?

なぜ、弱者は弱者と組まなければならないんですか?勝者が勝者と組まねばならないのは、いい結果を出すため、ではなくて、勝たねばならないから、そして、そのために他も勝者と組むから、ですよね。すべてがそんな感じですが、なんでみんなそういう風にしてるんです?

pikarrr
ネットウヨクは単にウヨクと呼ばれているだけで、ウヨクではないことは統計的にも言われているでしょ。ネットイナゴと呼ぶ人もいます。だからストレス解消レベルです。ただ政治的運動はストレス解消を力にしているといえば、政治的現象かもしれませんが。

「弱い者は助け合う」ことは立派なことでもなんでもないですよ。歴史的にも、世界的にも普通の現象です。そして「弱い者は助け合う」から、また誰かを排他するのです。たとえば村社会は助け合いの社会であって、またそこに村八分が生まるのです。いまの日本の動物化、他者回避化が特殊な状況なのです。

「必ず誰かが負けて下流は存在し続ける」というのは、ただ現実主義(リアリズム)なだけです。現実主義とは「なんでもあり」のことです。だから勝った人が負けた人と協力することもあるでしょう。そうできる人はそうすればよい。しかしそれでも大量の(勝者と組めない)下流が問題になっているということでしょ。

ウヨクにしても、サヨクにしても共産主義国家や、保護主義の強い国家などを目指すということではない。そのようなことして、世界市場から締めだされれば、経済的に大きな打撃をうけます。現代もはや「帝国」から容易に離脱することはできません。

現代において「帝国」があまりに強力なので、サヨクでもウヨクでも、この流れの中でいかに団結し、政治的な発言をするか、という方法論でしかない。だからそれぞれの立場で有用な方法論を見出して発言し、優位に進める努力をすることが必要になります。それでもあくまで、「帝国」に中でいかに生き抜くかという基本路線は変わらないでしょう。

pikarrr
現実主義といっても慣用的な意味ではなく、政治的、経済的な現実主義。

現実主義 出典:『ウィキペディアWikipedia)』 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%BE%E5%AE%9F%E4%B8%BB%E7%BE%A9

現実主義(げんじつしゅぎ、英:realism)は無政府状態の国際関係を国益と勢力均衡の観点から分析する国際政治学の主要な理論を言う。リアリズムとも言う。

軍事力や国益を重視するが、好戦的であることを意味しない。すなわち積極的に国家間で協力して勢力均衡ひいては安全保障を達成しようという現実主義が論じられるようになっている。この意味では、二者択一の次元を超え、国際協調を重視する理想主義と軍事力を重視する現実主義を織り交ぜた新しい形の議論が増えてきていると言える。
無政府状態「なんでもあり」ということ。「なんでもあり」の闘争だから、暴力が勝つと考えるのは浅はかで、なんでもありだからそこ、「知」があるものが勝つ。

要するに「なんでもあり」とは例外状態であって、現実主義そのものは国際政治に限らない。ボクが考える現実主義は後期ウィトゲンシュタインの思想を展開するもので、たとえばムフの闘技的民主主義(多元主義)などにも繋がる。

だからボクは下流も「なんでもあり」を生きていることを自覚して、団結しろ、そして方法論としてのサヨを活用しろとということ。まあ、サヨクといっても広いから、ウヨク的な方法論を取り入れてもよいが、労働問題、下流においてサヨク的な方法論の方が有用だろう。

重要なことは、「なんでもあり」では、「弱者は群れる」、「弱い者は助け合う」ことが重要だ。でなければ勝ち組には勝てない。国家はなんだかんだ言っても勝ち組重視でしかない。