身体の政治的な「環境-調和図式」 <環境-調和図式>1

pikarrr2008-08-11


<環境-調和図式>


以前から環境と人の関係を考慮したわかりやすい図式が必要だと考えていました。それで、<環境ー調和図式>を考案してみました。横軸は環境で人間が重視されているか、縦軸は環境が人間と調和しているか、を表します。



A.<強制>領域・・・人が環境に<強制>される関係

<強制>の領域は、先に環境があり、強制的に人がはめ込まれていく状況です。

交通環境でいえば道がない状況です。そこでは人は環境からの妨害を避けるように歩いて行かなければなりません。


B.<訓練>領域・・・人が環境を<訓練>する関係 

<訓練>の領域は環境が先にあり人がはめ込まれるわけですが、<強制>と異なるのは人は訓練することによって環境に対応します。そして訓練が多く反復されることで環境からの強制があることは忘れられ、環境と調和状態になります。それが習慣です。

交通環境でいえば道がある状況です。道を使用するにはルールがあります。どの部分が通行するべきで、右側通行などどのように通行すべきか。人はそれを学び、その後、習慣化によって、道を通行することが当たり前になります。

この<訓練>の領域の極限に生物界の自然淘汰をおくことができるでしょう。生物は環境とアフォーダンスするように身体形態さえ変化させます。人も進化上の存在ですが、この<訓練>領域は文化による環境への影響を意味します。このような<訓練>領域によって環境と調和されることは、マルクスの言う「類的存在」としての充足と言えるでしょう。


C.<管理>領域

<管理>の領域では人は環境を改良・管理します。そのために<訓練>領域に比べて、環境へ対応するための訓練が最小限ですみ、習慣化するまでの時間が短縮されます。交通環境でいえば高速道路や電車などの高度に管理された状況です。訓練なく速やかに交通できるように環境が管理されます。

この<管理>領域で環境と調和することは、「動物」的な充足と言えます。


D.<感染>領域

<感染>の領域では、人は環境を改良・管理しますが、環境との調和ではなく、不調和が目指されます。交通環境でいえばレースやジェットコースターなどです。交通の本来の目的である効率的に交通することが目指されず交通を困難にします。これはその困難(不調和)を楽しむためです。

<感染>領域では、人は訓練によって環境になれていくのではなく、一瞬で気に入ってしまう。人は不調和に感染します。そして環境が習慣化すると飽きてしまい、次々と環境をかえ感染を繰り返す。これはあえて不調和を求めるということでスノビズム的な充足と言えるかもしれません。




高速化する資本主義社会




このようなA<強制>B<訓練>C<管理>D<感染>において、人が環境と調和するための時間の短縮=高速化の傾向を見ることができます。これは、近代化における環境の変遷、資本主義システムの発展に対応しています。

資本主義の発展の初期では、生産環境は人への配慮なく導入され、人は<強制>された。これはマルクス<疎外>と呼んだ状態に近い。その中で生産性を向上させるために、生産環境と調和した質の良い<訓練>された労働力が求められた。これはフーコーの言う<規律訓練権力>に対応する。

資本主義が高度化する中で、生産環境を<管理>する技術が発展した。人に配慮され設計された環境によって、労力は増幅されて大きな生産性を生み出す。これはフーコーのいう<生権力>に対応する。

また生産の効率化とともに、多様な商品が生み出される。環境との充足は絶えず乱され、欲望が活性化されることで消費が促進される。ここで<生権力><物象化>は相補的に消費型資本主義を活性化する。

A 環境に<強制>される関係   疎外
B 環境を<訓練>する関係     規律訓練権力
C 環境を<管理>する関係    生権力
D 環境に<感染>する関係    物象化




「身体の政治的な技術論」


このように環境とは単に物理的な環境を意味しません。それはフーコーの言う「身体の政治的な技術論」という「権力」に関係します。この存在論的な地平において、実在的な経験論と観念(認識)論はともに語ることができる。

身体の作用の科学だとは正確には言えない身体の一つの<知>と、他方、体力を制する手腕以上のものである体力の統御とが存在しうるわけであって、つまりは、この知とこの統御こそが、身体の政治的技術論とでも名付けていいものを構成するのである。

権力に有益な知であれ不服従な知である一つの知を生み出すと想定されるのは認識主体の活動ではない、それは権力−知(の係わり合い)であり、それを横切り、それが組み立てられ、在りうべき認識形態と認識領域を規定する、その過程ならびに戦いである。

精神は一つの幻影、あるいは観念形態の一つの結果である、などと言ってはなるまい。反対にこういわなければならないだろう。精神は実在する。それは一つの実在性をもっていると。しかも精神は、身体のまわりで、その表面で、その内部で、権力の作用によって生み出されるのであり、その権力こそは、罰せられる人々に・・・行使されるのだろ。この精神の歴史的実在性がある・・・また、知が権力の諸成果を導いて強化する場合の装置こそが、実は精神の姿である。


「監獄の誕生―監視と処罰」 ミシェル・フーコー (ISBN:4105067036

(つづく)
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