「環境-調和図式」と構造主義 その1 <環境-調和図式>2

[試論]身体の政治的な「環境-調和図式」 その1 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20080811のコメント欄より、脂(あぶらすまし)さん*1との議論。



■脂(あぶらすまし)

勝手に思いついたことが自分で「面白いな」と思えたのでコメントしてみます。その図表、ここ(http://www.geocities.jp/captifamoureux/mishima.htm)にうpされている図表と関連させてみると面白いかもですね。




参照:「三島、その可能性の中心」 志紀島啓 http://www.geocities.jp/captifamoureux/mishima.htm

「調和−不調和」軸が「構造内−構造外」軸に、「人間重視−環境重視」軸が「神聖化−世俗化」軸に、なったりするのかな。右方向に90度回転させるわけか。となると、リンク先の筆者は、その図表において、1をスキゾフレニックな様態、4を幼児的様態って述べてますが、1を物象化、4を原初的様態として述べているあなたの論にも合ってきそうです。



■pikarrr

浅田−志紀島図式との違いがわかりやすいのは、<訓練>だと思います。歩くことさえ数年の訓練が必要です。訓練は習得するのに時間を要する。この時間は経験論的なものです。強制はいくら時間をかけても調和しない。管理は訓練の時間を短縮する。感染は訓練の時間を限りなくゼロにする。構造主義的な共時的ではなく、経験論的な通時性を基本に<環境-調和図式>を考えました。

このように経験論を重視すれば、ご指摘と逆に「調和−不調和」「構造外−構造内」に対応します。「構造」「不調和」であるのはおかしいと思うかもしれません。経験論的な調和とは訓練によって環境と人が調和する状態です。究極には進化論的な自然淘汰であり、アフォーダンスな状態です。

構造主義は経験論と対立する合理主義的な立場です。合理論は世界を合理的に記述しようとしますが、そのしわ寄せとして超越論的な点が必要になります。カントが見出した物自体であり、浅田−志紀島図式では2)に対応します。経験論的には無理矢理の調和であり、不調和です。ラカンでいえば、この不調和は終わりがない欲望が生まれる図式です。

浅田−志紀島図式は2)の構造主義の構造を基本に展開しているという点で、すべて合理論の領域です。ボクは<環境-調和図式>によって、合理論と経験論を一つの地平に乗せたいということで考えています。



■脂(あぶらすまし)

「調和−不調和」軸の反転は、それもありかなあと思っていました。しかし、それを調和と表現する自体が、すでに環境主義なような気もします。言語というものが元々人間主義的なものなので(少なくとも環境は象徴界ではない)、「構造」「調和」が連鎖する方が正しいと思います。「女は存在しない」と同じレトリックですね。となると言語なんて、って話になりがちですが、あなたの仰る経験論を表現してきたのは、むしろ文芸である気もします。

あなたのやっていることは、一つの地平に乗せるというより、理に則りながら理の外側を表現するようなことに思えます(批判ではなく、ただの感想です)。一つの地平に乗せるということ自体が、共時的視点の要請、あるいは合理論が経験論を飲み込むことであるように思います。構造主義とはそういうものであるような気がします。

わかりやすくいうと、あなたの思考様式は、ひどく構造主義的に見える、という感想です。



■pikarrr

「女は存在しない」、別に言えば「性関係は存在しない」。これは人間と「環境」との調和の不可能性とともに、構造が「不調和」であることを示しています。ラカンには言語外の経験、訓練は排除されているので、重要な指摘はむしろ構造が「不調和」であるという方にあると思います。

精神分析はそもそも「感染」領域を研究するというとても特殊な学問です。各分野を研究する人間に関する学問の例は大まかになりますが、以下のようになります。これで漠然と<環境-調和図式>の目ざすところがわかっていただけるのでないでしょうか。

強制(疎外)・・・政治学
訓練(規律訓練権力)・・・技術、工学、医学
管理(生権力)・・・科学理論、経済学、心理学
感染(物象化)・・・現代思想構造主義)、精神分析社会学



(つづく)

*1:アブラブログ http://aburax.blog80.fc2.com/