なぜただ歩いているときが自然な状態なのか 4

pikarrr2008-08-15


無意識と暗黙知


暗黙知はマイケル・ポランニーが示した「無意識的」なものですが、言語ではなく、身体知です。たとえば自転車にのるために繰り返しの訓練が必要です。そして訓練の末に一度自転車の乗り方を習得すると人は一生乗り方を忘れないと言われます。しかしどのように乗っているのかと聞かれても答えることができません。ただ乗っているとしかいえない。このような身体知はとても一般的なものです。歩くこと、走ること、投げること、スポーツは身体知の固まりです。だからスポーツ選手は訓練(練習)がすべてです。

このような身体知(暗黙知)は「言語のように構造化されている」でしょうか。そうではないでしょう。ラカンの無意識を言語系の知とすれば、暗黙知は運動系の知です。

ここでわかることは、ラカン理論は「性関係は存在しない」というように強烈なほどに言語に忠実であるあまりに、多くが排除されているのです。言語外を現実界へとひとくくりにして、欠如として排除してしまっているのです。なぜならラカン構造主義者という一つの立場を選択しているからです。




暗黙知神秘主義


しかしそもそも、行為、暗黙知とはなんでしょうか。暗黙知神秘主義的にとらえられるのかは、それが何であるか、まだ科学的に分析されていないからです。たとえば二足歩行のロボットが開発されたのも最近です。人がどのようにメカニズムで歩いているのかさえわかっていません。人はほとんどの行為を意識せずに行っていますが、それがどのようなものであるか、ほとんどわかっていません。

それに比べると、言語は、ソシュール以来、多くの研究がなされ、ラカンを経て人間とはどのようなものであるかを表現する方法論を構築してきました。だから「意識しないもの」を表現する場合にいまだに精神分析的な方法論が有用とされます。




無意識は存在するか


身体知を排除して、構造主義という合理的な世界が組み立てられるのか、すなわちラカンの無意識はそもそも存在するのでしょうか。

人は歩くとき、どのように足をうごかし、どの場所を踏み、歩くなど考えません。ただ「自然に」歩きます。それが近くに地雷が埋まっていることがわかったとき、人は立ち止まり、歩けなくなります。しかしそれでも歩かなければならないとき、地面をよく見て、不自然な場所がないか、それを避けて、足をそろりと運びます。通常、疑いもしない地面への不信感が生まれることで、ただ「自然」とはほど遠い状態が生まれます。

このような状態は、神経症に似ています。通常、多くの人が「ただ自然に」行っていることが、「世界」への不信感から「自然に」行えなくなる。この食堂の食器はちゃんと洗えているのだろうか、誰かが影で悪口を言っているのではないか、誰かが命を狙らっている・・・。

簡単にいえば、神経症とは「考えすぎ」のことです。通常、暗黙知(身体知)で行う「自然な」行為について、言語知が過剰に表出してしまっている状態ではないでしょうか。そのような状態になるのは、頭で考えすぎる、言語によって理解しようとしすぎる、あるいは神経質な性格、内向的で言語過多な性格によって、精神分析的には幼少期の外傷の回帰でもよいのですが、何らかの原因で世界への不信感が芽生えてしまう。「考えすぎ」というのはなんということはないようですが、世界への不信感は人間にとって決定的な問題です。原理的には行為することが不可能=フリーズすることになります。

すなわちラカンいう「言語のように構造化された」無意識というのは、暗黙知(身体知)がフリーズした病んだ状態に現れる「静的な構造体」といえます。精神分析のいう無意識とは神経症な無意識としてのみ存在するものです。「健全な」身体では言語知は身体知と一体となり、動的に作動するために「静的な構造」を持ちません。




不自然な性関係と、限りなく自然な歩行


といいたいのですが、精神分析で言われるように、人はみな多かれ少なかれ神経症であるといえます。たとえば思春期や恋をしたときなど、人は「考えすぎて」自然なふるまいができなくなります。あるいは誰もが悩みをもっていますから、悩んだときにも、自然なふるまいができなくなります。

その意味で、「性関係は存在しない」というテーゼで、人間に「自然な」状態はないといったラカンは正しいといえます。しかししかしそれでもやはり言い過ぎで。自然な性関係はなくても、限りなく自然な歩行はあるのです。それは、無意識ではなく、訓練によって獲得した暗黙知によってなにも考えずに歩いている時です。人の行為のほとんどはこのように考えずに自然に行われます。

さらにいえば、フロイト以来、精神分析がなぜ性関係にこだわるのか。性関係は社会的に抑圧され、安易に訓練することが許されません。だから性関係の暗黙知を訓練することがむずかしい。だから性関係は限りなく言語記号的なもの=セクシャリティとして表れます。そのような傾向は現代では非モテ系のオタクの性対象である二次元(記号)に顕著です。




調和とは疎外でもある


自然な状態とは「環境」と身体か暗黙知を介して調和している状態です。だから歩くということは、重力、大地と身体が調和している、自転車に乗ることで自転車と身体が調和している、それが自然な状態です。その究極は自然淘汰による身体知が身体形に具現化されることであり、その適応した身体と環境とのアフォーダンスな関係です。

しかしこの調和をまた一つの疎外として考えることもできます。訓練によって身体が環境に合わされている。歩くということは、重力と大地の状態に拘束されている、自転車に乗るということは、身体が自転車の構造に規定される。訓練はそのような「環境」に身体を合わせていくことです。このように考えると進化論の自然淘汰「疎外」と言えます。環境に身体形態まで強制されている。(進化論をこのようなことを表現する人はいないと思いますが)

初期の自転車はとても乗りにくいものだったようですが、自転車がもっと人の体に合わせて設計されていれば、訓練などほとんど必要がないかもしれない。というように、現代は電車に乗れば、訓練がなく、より速やかに移動できるように、移動手段は開発管理されています。すなわち少ない訓練で人と環境が調和される。これは図式上では<訓練>から<管理>へを示します。

調和はまた疎外ですが、<訓練>や<管理>は、人があたかも調和しているように感じることができる状態ということです。これが、フーコーが規律訓練や生権力で指摘した権力の形です<強制>のような明らかな身体的な苦痛を与えず、環境に充足(調和)させる権力ということです。ボクが「調和」ということで意味するのはこのようなことです。

再度、環境-調和図式にもどると、以下のようになります。

A 強制・・・疎外により不快な状態
B 訓練・・・暗黙知によって限りなく自然な状態=(マルクスのいう)類的存在的な充足
C 管理・・・暗黙知+環境管理によって限りなく自然な状態=動物的な充足
D 感染・・・ラカン的無意識による神経症な状態=スノビズム的な充足



*1
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*1: [まとめ][議論]「環境-調和図式」構造主義(全体)http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20080814#p1の議論の発言を整理しています。

*2:画像元 日本のオーディナリー型自転車の歴史 http://www.eva.hi-ho.ne.jp/ordinary/JP/ordinary/index2.html