心身二元論の臨界に「環境」を導入すること 5

pikarrr2008-08-17


「欠如(ないことである)」としての物自体


たとえば天文学「いかに惑星をさがすか」というのがあります。恒星はみずから輝くから「見る」ことで発見されますが、惑星は輝かないので「見て」も発見されません。惑星は、そこに惑星がないと恒星の軌道が説明がつかないという「欠如(ないことである)」として、発見されます。

それとともにこの「惑星」は逆に、物理法則そのものを支えます。なぜなら恒星の動きは、そこに惑星などなくただ従来の物理法則と異なる未知の法則が働いている可能性もあるからです。そうだとすると、従来の物理法則は崩壊します。そこに「惑星」があるだろうことで、物理法則という体系の正当性が保証されます。

カントの物自体は、人間には認識できないが、認識の向こう(超越)にある真実の世界として、超越論的に語られますが、カントのアンチノミー(二律背反)論では、この「惑星」のような「欠如」としての働きをします。

アンチノミー(二律背反)論では、物自体は「超越論的対象=X」と呼ばれ、言語体系上のテーゼとアンチテーゼの矛盾を、超越の領域で整合する点として置かれます。超越を人は認識できませんが、そこに物自体(超越論的対象=X)があることで、人間の認識する現象界(言語体系)そのものが支えられます。

すなわちカントが見出したのは、合理的に世界を説明しようとするときに、しわ寄せとしての言語体系の不完全性をさえる超越論的な対象=Xが必要になるということです。




合理主義の欲望


この場合の物自体は、構造主義でいえば、象徴界を支える現実界に対応します。しかし当然、カントは無意識も、欲望もかたりません。またラカンの欠如はカントよりもハイデガーの現存在の欠如に近いと言われます。

ラカンはこの欠如にフロイト「快感原則の彼岸」、すなわち欲動を重ねます。しかしこれは無理矢理のこじつけでしょうか。そうかもしれません。しかしボクが考えるのは、世界を合理的に説明しつくしたいという欲望が、破綻を乗り越えて作動することで超越論的な点はうまれる。合理論そのものが神経症的であり、精神分析は合理論の神経症性を身を持って暴露した。

すなわちカントやその他の合理論全般に潜む欲望を暴露している、のではないか。しかしこれは単に合理論の問題とはいえません。人が世界を合理的に説明し尽くそうとするとき、性急に言語により世界を理解したいと強く望むときに、あらわれる。このように「ないことである惑星」が体系の正当性を報償する、これを否定神学といいます。




心身二元論の臨界


無意識と暗黙知は、「意識しないもの」心身二元論の関係にあります。ここにあるのは、大陸の合理論の流れと英米の経験主義の流れを見ることができます。構造主義(ポストを含む)は前者であり、ポランニーは後者です。後者には分析哲学プラグマティズムなどがありますが、身体知に近いのは行為論としてのウィトゲンシュタインです。ウィトゲンシュタインは言語を問題にしましたが、発話を実践、訓練によって習得するものとしました。無意識ではなく、暗黙知に近いものとして考えました。

しかしこれらは対立構図にはなく、本来、相補的である以上に一つのものです。だから心身二元論的なとらえ方は人間分析の方法論(イデオロギー)の違いといってもいいでしょう。さらに言えば、人は複雑なものをこのようにそれぞれの面で分解してしか思考することができないとも言えます。

だから心身二元論「境界(臨界)」では、矛盾した様々な言説が飛び交います。ボクは、このような否定神学も臨界の言説の一つだと思っています。

たとえば行為論もまた身体側から「臨界」へ近づくとき、矛盾した言説に陥ります。たとえば有名なものが人工知能のフレーム問題です。フレーム問題を突き詰めると人はフリーズして行為することができなくなります。それを乗り越えるのが暗黙知です。言語によって作られた人工知能とは異なり、人間には暗黙知がある。しかし暗黙知とはなにかはまだよくわかっていない。すなわちここでは暗黙知否定神学的な役割をもつ、超越論的シニフィアンとして作動しています。

合理論、構造主義、哲学そのもの、すなわち体系化を試みる言説は否定神学にむかう。それは神経症の構造なのです。人間は暗黙知によってのみ「自然に」振る舞うことができない。無意識は言語をつかう人間のサガ、人間という症候です。




心身二元論「環境」という共通基盤を導入する


再度言えば、暗黙知と関係しない純粋な無意識も、言語と関係しない純粋な暗黙知も存在しません。だからボクが示した<環境-調和図式>は、あえて、心身二元論の構図を持っています。何度も言うように経験論と合理論を同じ地平に示すというのは、現時点では融合することが難しい心身二元論を、あえて心身二元論として、同じ図式にのせるということです。

それは心身の境界に存在論レベルで差延(差異と遅延)を持ち込む、デリダ的な存在論とは違います。もっと超越論(合理論)と実働(経験論)を対峙させる。そこで重要になるのが、心身二元論「環境」という共通基盤を導入することです。環境で働く超越論そして経験論な力関係(権力)を検討すること、それはフーコー的アプローチです。

身体の作用の科学だとは正確には言えない身体の一つの<知>と、他方、体力を制する手腕以上のものである体力の統御とが存在しうるわけであって、つまりは、この知とこの統御こそが、身体の政治的技術論とでも名付けていいものを構成するのである。

権力に有益な知であれ不服従な知である一つの知を生み出すと想定されるのは認識主体の活動ではない、それは権力−知(の係わり合い)であり、それを横切り、それが組み立てられ、在りうるべき認識形態と認識領域を規定する、その過程ならびに戦いである。

精神は一つの幻影、あるいは観念形態の一つの結果である、などと言ってはなるまい。反対にこういわなければならないだろう。精神は実在する。それは一つの実在性をもっていると。しかも精神は、身体のまわりで、その表面で、その内部で、権力の作用によって生み出されるのであり、その権力こそは、罰せられる人々に・・・行使されるのだろ。この精神の歴史的実在性がある・・・また、知が権力の諸成果を導いて強化する場合の装置こそが、実は精神の姿である。


「監獄の誕生―監視と処罰」 ミシェル・フーコー (ISBN:4105067036

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