なぜ「真実」には規律社会が必要なのか

pikarrr2008-09-28


司法モデルと戦争モデル


現代人のボクたちは真実が相対的なものであることを知っている。真実は空間的、 時間的によって変化する。しかしフーコーが系譜学的に真実について語るとき、ただ相対的であるということではない。

たとえばある人Aがある人Bにお金を盗まれたと訴える。それに対してある人Bは盗んでいないという。多くにおいてAは警察に通報するだろう。警察は双方から事情を聞き、さらには状況を「調査」する。そしてその調査結果は司法の場へ持って行かれ、真実が明るみに出される。

このように調査によって明るみに出すものは「事実」である。実際にそこでなにかが行われたのであり、それが明るみになれば、Aが正しいか、Bが正しいかわかるはずである。このような「事実が正しい」ということは現代社会生活の中で疑いえないものである。

フーコーによれば、現代では当たり前とされる「調査」によって真実を明らかにする「司法モデル」は、歴史的にみれば必ずしも当たり前のことではない、という。司法モデルはプラトンにさかのぼることができる。「戦争モデル」=闘争、政治とは別に、世界に真実=知がある。そして知によって正しい社会が生まれる、とプラトンは考えた。 その後、封建社会ではゲルマン古法の「戦争モデル」が優位になる。「戦争モデル」では争う二者が様々な方法で争い、正当性を決する。そこでは調査による真実という概念はない。




司法モデルの繊細さ


「司法モデル」の真実を明らかにする過程では、争う二者とは別に警察、司法などの第三者が登場する。三者がいなければ真実は明らかにされない。近代になぜか、「司法モデル」が復活する。科学技術のもまた調査によって「事実」を明るみに出すという司法モデルを基本として発展している。

このような司法モデルと戦争モデルを対比すると、なんと司法モデルが繊細なシステムだろうか。たとえば無法地帯を考えてみる。自分の主張は事実であるから正しい、ということですむだろうか。第三者の介入が期待できない無法地帯では自らの力で争い勝つしかない。そして歴史的、空間的にみても、多くは無法地帯なのである。

たとえば近代に発展した貨幣システムもまた司法システムに近い繊細さをもつ。貨幣システムの不思議はただの紙切れを人々が価値があると信じるのはなぜか。マルクスはこのような貨幣によって支えられてシステムが恐慌によって崩壊することを予測した。現に歴史上、恐慌は定期的に起こり、貨幣が紙くずになる事態は起こっている。




国家と司法モデル


現代のボクたちが裁判であり、貨幣であり、科学技術の発展であり、「司法モデル」をあたりまえのように思えるのは、そこに強い第三者が存在するからだ。強い第三者は国家権力に行き着くだろう。

歴史上、様々な支配形態が存在したが、現代の国家権力の特徴は主権が国民にあり、自由と平等を保証している点にある。そして国家はグローバルな国家間の関係性によって保たれている。それは最初からグローバルな経済的なネットワークを維持する協力関係にある。

その権力下で人々は生まれながらに教育され、訓練され、規律を身体に覚え込む。そして人々は問題があれば警察に頼り、ほしいものがあればお金を払うというように「ただ振るまう」これがフーコーのいう「規律社会」である。現代の「真実」を重視する繊細で高度な「司法モデル」はこのような特殊な時代性によって可能になっているのだ。

しかしだからといって、すべてを第三者(国家権力)にゆだねればすべてがうまくいくわけではない。たとえば映画それでもボクはやってないでは、痴漢冤罪を通して日本の裁判の矛盾が描かれた。ここで暴露されたのは裁判とは真実を明らかにしようとする「司法モデル」であるとともに、互いに権利をかけて争う「戦争モデル」の側面である。日本でも裁判員制度が始まるが、今後より戦争モデル的な側面があらわになるだろう。




歴史の終焉と想定範囲の戦争モデル


現代、ネオリベラリズムな傾向の中で、より個人の自由が重視されるとともに自己責任を問われる。「小さな政府」といわれるように国家は司法モデルの維持のために細部にわたり秩序を保とうとする傾向は緩みつつある。それにかわって社会の中に「戦争モデル」がむき出しになりつつある。

しかしそれは国家権力の弱体を意味するのではないだろう。むしろ国家は統治への自信を深めているといえる。冷戦後、資本主義システム=市場経済と国家システムは勝利することで、歴史は終焉し、世界は<帝国>化した。貨幣とともに、民主主義、科学技術、すなわち司法モデルが世界に拡散している。テロリズムでさえこの流れをかえることはできない、というよりも、想定範囲内の戦争モデルであるといえる。




「戦争モデル」ネオリベラリズムを促進する


適度の「戦争モデル」を許容すること、自由を容認することがネオリベラリズムの拡散を促進している。

マルクスが指摘したように、かつて資本主義社会においては生産が重要視されていた。生産性の向上においては、重要であるのは労働時間の共時性である。多くの人々の訓練され均質化した労働力を共時的に作動させること、すなわち分業によって生産効率は飛躍的に向上した。このためには規律訓練が重要であった。

しかし生産効率がある程度向上すると、重要になるのは消費である。大量生産による商品をいかに大量消費するか。商品に使用価値が求められているだけではすぐに消費は飽和してしまうだろう。交通、運搬のためだけに車を買えば、そうそう買い換える必要などない。人々に車を頻繁に買い換えさせるためには重要であるのは均質な規律とは逆の独自な個性である。個性とは承認への欲望を促すことである。そのためには「司法モデル」よりも想定範囲の「戦争モデル」が有効なのである。



調査とは内容ではさらさらなく、知の一形態だということです。あるタイプの権力と一定の認識の内容との接合部に位置する知の形態なのです。認識されたものと、その認識のコンテクストとなる政治的、社会的ないしは経済的諸形態との関係を確立したいと望む人びとは、通常この関係を意識や認識の主体の仲介によって確立しようとします。私にはしかし、経済的政治的プロセスと知の葛藤との真の結合は、権力の行使様態であると同時に知の獲得と伝達の様式であるこの形態のうちに見出されるのだと思われます。調査とはまさしくひとつの政治形態、管理形態、権力行使の形態であり、司法制度を通して、西洋文化において、真理を真性化し、真実だとみなされるようになるものを獲得し、それを伝達するやり方となったのです。調査とは知−権力の一形態なのです。この形態を分析することで、われわれは認識の抗争を経済的政治的決定との関係をより厳密に分析することができるでしょう。


「真理と裁判形態」 フーコー・コレクション〈6〉生政治・統治 (ISBN:4480089969)