なぜiphoneは時代遅れなのか 

pikarrr2008-09-30


iphoneへのリベラルな熱狂


予想どおりiphoneが売れていない。なぜ売れないのかは簡単なことで一般的なケータイユーザーにとってユーザービィリティが低いのだ。この当たり前のことに重要な転回が含まれているのではないだろうか。

iphoneはケータイというより超小型のパソコンのようといわれる。だからiphoneの優位性はパソコンがケータイにまさる点にある。たとえば機能の汎用性の高さ。パソコンは「知的な箱」のようなものでユーザーがさまざまな機能を付加し作り上げていく。

それはパソコンを端末にするネットコミュニケーションの自由度の高さにもつながる。パソコンを端末にしようがケータイを端末にしようが、同じネットであるように思うが、特に日本では、ケータイはネットへの入口を閉塞し、巧妙に自由でフリー(ただ)なネットへの道をさまたげ稼いでいる。

ここにはケータイ=中央集権、資本中心に対する、パソコンの民主的で非資本的という対立の構造がある。たとえばラジオ、テレビなどのテクノロジーは遅かれ早かれ誰かが発明したといわれるが、パソコンがこれほど普及したのはアメリカのその時代のオタクな人々の情熱によるといわれる。中央集権的なコンピューターを、人々の手へと渡るように分散化、民主化したのである。そこにはアメリカンなリベラルな思想性がある。

パソコンの新機種、ウィンドウズの新バーション、そしてiphoneへの熱狂の根底にはこのような、人々への解放、自由というアメリカンなリベラルへの熱狂がある。




ケータイ世代はパソコンへの愛着を持たない


これだけ普及したいまもパソコンは不思議な機械である。とくにネット端末になる前、このただの箱はなぜにこれほど求められたのか。

パソコンは決してユーザーにやさしくない「気むずかしい機械」である。なぜこれほど立ち上がりに時間がかかり、よくエラーが出て、意味不明な作動をするのか。この完成度の低さは家電製品など他の製品では考えられない。そしてそのような気むずかしさにみなが根気よくつきあうのか。いやつきあうだけではない。その気むずかしさをよろこんでいるようにさえ見える。このような「パソコンへの愛着」はもちろん人がもつ特性などではなく、文化であり、思想である。

そしてケータイ世代にパソコンへの愛着を期待することは無理な話だろう。もはや現代、多くのひとびとはパソコンをつかったことなく、ケータイでネットを楽しんでいる。ケータイ世代にとって重要であるのは、とにかく速やかにコミュニケーションできることである。だから日本のケータイな保守的な囲い込みも便利である分には問題ではない。そしてそこにリベラルな思想性はない。

だからiphoneの失敗がしめしたのはもはやリベラルな思想が作り出す保守/リベラルの対立構図が陳腐化しているということではないだろうか。
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