フーコーの政治歴史主義 <わたくし的読解>一日目

pikarrr2008-10-08


1)フーコー「政治的歴史主義」


フーコーの基本の三角形は、権力−法−真理です。法というのは主権を、そしてその権力の行使を明文化し正当化するものです。法は循環論にあります。法が主権を保証し、主権が法を正当化する。結局、その正当性はどこにも根を持ちません。そのために必要とされるのが、真理です。たとえば王の主権は、神話によって保証されます。この国を作った神の正当な継承者という神話によって王は王としての正当性を持ちます。

法の正当性は、一見このような神話的な真理とは関係がないようですが、真理による保証がなければ、主権の、そして法の正当性は保証されません。法は司法モデルによって保証されます。AとBが争うときに、それを調停し保証する第三者。この第三者による主権によって保証された法です。この三項モデルによって、静的な秩序は保たれます。

三者は単に実体的な支配者の暴力によって支えられてはダメです。それでは暴力へ対抗する者が現れる。第三者は真理によって保証されている必要があるのです。このような司法モデルを形而上学として確立したのはプラトンです。形而上学的にあるイデアという真理。これは合理論として継承されていきます。それをより確かに確立したのが、カントの超越論です。しかし実際はこのような司法モデルは、秩序そのものを支えます。たとえば科学も数学も、その正当性を問うときに、その確からしさを形而上学に支えられなければならないのです。

そのためにフーコーが重視するのが、司法モデルに対抗する戦争モデルです。戦争モデルはAとBが争うという二項モデルです。フーコーが戦争モデルを重視するのは、司法モデルにたえず戦争モデルが内在しているということです。ある司法モデルが真理によって支えられているということは、その真理に対抗する真理があるということです。そこに「戦争」があります。フーコーの分析は、絶えず司法モデルを支える真理がどのような「戦争」のもとに現れたのかを明らかにすることです。フーコーはそれを「政治的歴史主義」と呼びます。真理とは神話であり、歴史によって生まれます。それぞれの真理の歴史を読むこと、これをニーチェは系譜学と呼びました。




2)規律訓練権力と身体訓練


というように原理的な話をしましたが、フーコーの本論はこのような原理論にはありません。実際の真理の歴史の権力が毛細管上、ネットワーク上に作動するその末端を語ることです。そのような分析から、様々な権力が浮き彫りにされました。

まず一般的な権力論によって語れるのは主権です。たとえばホッブズが語る主権論。フーコーホッブズリヴァイアサンを戦争モデルではなく、戦争モデルを隠すための司法モデルであると言います。多くの権力論は主権の歴史として語れます。それに対して、フーコーが示したのが、規律訓練権力です。特に近代において、人々が国家の成員となっていく中で、人々を動かしたのは、主権による権力=法によるものではありません。社会に張り巡らされた、規律訓練装置である、と考えます。

規律訓練権力はまなざし(大文字の他者)によって規律をを内面化するという超越論的に考えられることが多いですが、それは機能の一部です。フーコーが重視するのは身体へ作用するという点です。小さな空間に閉じこめて、真似ることで身体の作動を繰り返し訓練される。有名なパノプティコンは監獄そのものではなく、社会全般に現れるそのような訓練空間(装置)を意味します。

たとえば学校では、生徒が教室のいう閉鎖空間の机という決められた空間に配置されて、先生が指導する規律を訓練されます。これは教科書のようなテクストを頭に入れるということでも、権威の先生を信用するということでもなく、先生のテクストの使い方(規律)を真似ることで訓練する行為です。机に座ってみているだけでも、それは行為の訓練であるのです。病院でも同様です。閉鎖された病室、ベッドなどその空間、そして様々な器具の配置、その周りで動作する人々の動きと、患者が要求される内容、行為、それらが反復されるという経験によって身体に刻みこまれて訓練されていきます。




3)規律訓練権力とウィトゲンシュタイン


言語論には文脈主義意味論があります。言語はコンテクスト(文脈)と切り離しては決して意味を持たない。たとえば「バカ」という発言は、どのような状況(コンテクスト)で発話されたのによって意味が変わります。しかしコンテクストとはなんでしょうか。文章の中の位置、あるいはそのときの状況全体でしょうか。重要であるのは、発言は行為であるということです。しかしこれは言語行為論でもありません。もっと人の行為という身体と密接に結びついている。なぜなら「私的言語は存在しない(ウィトゲンシュタイン)」からです。

どのような発話も経験、すなわち訓練によって身につけたものからしか出てこないからです。フーコーは間接的な表現でしか説明していませんが、権力関係を「ゲーム」と呼ぶことで、後期ウィトゲンシュタイン言語ゲーム論から多くの影響を受けていると思われます。ウィトゲンシュタインは、言語は経験、訓練、実践によって学び、使われると言いました。

訓練は環境とそこに住む人たちを無意識に真似る経験です。そのようにして、行為としての言語を身につけていくのです。そして人はそのような身につけたものでしか行為できないのです。そして規律訓練権力とは、意図的に訓練空間(装置)を作り出し、閉じこめて、体に覚えされるものです。近代以降このように装置が社会の末端まで配置されました。




4)規律訓練権力の自主性と楽しさ


このような説明だけでは、規律訓練というと閉鎖された労働空間がイメージされます。一日中、決められた機械の前に配置され、機械作業を繰り返すよう訓練される。さらに仕事が終われば、寄宿舎に帰り、決められた規則正しい生活が求められる。このような閉鎖的状況は産業革命以後、労働現場で多く行われていました。あるいはいまもそれに近い労働現場もあるでしょう。工場と近くの会社の寮(社宅)の往復の毎日。自由時間は自由にすることができるが、生活のリズム、態度に規律が求められる。

しかしマルクス主義がいうような強制的な労働と規律訓練権力は関係がありません。規律訓練権力はマルクスよりもウェーバーのいうプロテスタンティズムの倫理」の系譜あります。だから強制ではないところが重要です。自ら、労働者が規律を守ろう、そして生産性を向上させようと努力する。訓練によって身についた行為を行う、訓練が上達することの楽しさを教える。このように勤勉さは、学校、職場、家庭などなどいまやあまりに当たり前のことです。

さらにかつての労働の効率が重視された初期の資本主義から消費型の資本主義へと移っていく中で、画一化は重視されなくなりました。大量生産された商品をいかに、消費するのか、これが重要な問題になった中で、消費を促進するように個性的あることが求められたのです。現代ではその流れは、労働へも波及し、知的価値商品開発として、いかに個性的で創造的な商品開発をするかに多くの労働対価が払われ、重視されます。




5)生権力と規律訓練権力


19世紀に全面化してきた生政治は、簡単にいえば経済中心の世界に対応します。人口の増加に伴い、マクロに秩序があるということが発見され、それが明確に現れたのが経済(学)の分野です。そして国家群によって世界が成り立ち、その国家は国民という人口を中心にしたマクロ政策を考えます。これが生権力です。「神の見えざる手」という発展形態が、国家群という経済の促進装置として具現化されたのです。

生権力の原動力は、国家間の競争、国力(経済力、人員能力)の競争です。GDPなど、自国通貨の国際的なレートなどの経済指標から、ノーベル賞の数、オリンピックのメダルの数、定期的な国際学力試験の順位などを指標として、国民という全体を対象とした国家の政策が決定します。

そしてこのような生権力による国家戦略は、規律訓練権力として社会の末端まで実行されていきます。最近オリンピックで国力を世界に知らしめようとした中国では、オリンピックにあわせて、街の区画、景観から、公衆衛生、人々の道徳指導を進めました。それは単に観光客への見た目だけではなく、街を整備することで、中国の人々はその配置によって、新たな高度な規律が訓練されるのです。環境は人を作るのです。

このように生権力と規律訓練権力という「生政治」によって、資本主義社会は国家間の競争、それは均衡として発展してきたのです。このことからも、規律訓練が決して、画一的な訓練を作るものではないことがわかります。生政治のアウトプットは国力の向上させること、だから、規律訓練は個性的、創造的であるようにも訓練されます。




6)生政治の画一性と創造性


民主主義が自由と平等を目指したように、むしろ生政治はそのはじめから、創造的であり、個性的であることを重視してきました。さらに言えば、生政治によって画一的であることがよって発明されたとすれば、同じように生政治によって創造的であること、古い価値を破壊し新たに生み出すということも、発明されたのです。

このようなことはフーコーのみならず、いくつかの思想家によって指摘されていますが、美学評論家アガンベンは、以前、制作とは美術品のみを意味するのではなく、生活用品との区別なく、語られていまいた。生活用品が大量生産されるようになるとともに、美術品は創造的(破壊的)であることを求められるようになったと指摘しています。あるいは論理学と修辞学(レトリック)という言語に関する2大学問は、近代において、論理学中心になることで、修辞学(レトリック)は芸術の分野として重視されました。そしてまたネグリ「帝国」において、示したのもまたこのような生政治の画一性と創造性の二面性の世界像といえるでしょう。(つづく)

国民的な枠組みを超えて諸国にまたがって産業・金融部門で活動する企業が、生政治的な仕方で現実にグローバルな規模の領域を構造化しはじめたのは、二〇世紀後半になってからのことにすぎないのだ。・・・投資を選択し、金融と通貨に関する作戦行動を指示する複合的な機構が、世界市場の新しい地形、より実情に即した言い方をすれば、世界の新しい生政治的な構造化を決定するのである。P51-52

資本主義市場が、内部と外部を分割しようとするあらゆる企てにつねに逆らいつづけたきてひとつの機械であるということをここで思い起こしておくのが有益であろう。資本主義的市場は障壁と排除によってその運動を妨げられ、またその逆に、自己の領域の内部によりいっそう多くを包含しつづけることによって栄える。・・・そして資本主義市場のこうした傾向の到達点は、世界市場の実現によって画されることだろう。その理念的な形態においては世界市場に外部は存在しない。地球全体がその領域なのである。私たちはは世界市場の形態を、<帝国>の主権の形態を完全なかたちで理解するためのモデルとして使用してもさしつかえないだろう。P246-247


<帝国> アントニオ・ネグリ マイケル・ハート (ISBN:4753102246

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