デカルトによるコギトの発明 <わたくし的読解>二日目

pikarrr2008-10-09


1)フーコーの権力論と主体の不在


昨日の続きですが、フーコーは19世紀ごろに全面化した生政治を明らかにしました。生政治は生権力と規律訓練権力の両輪でできています。生権力は国家内の人口をいかに管理・運営するか。それによってグローバルな国家間の競争に勝っていくこと、それぞれが競争することによる均衡が目指されます。このような国家的な戦略は規律訓練権力によって末端へと実践されます。規律訓練は管理された環境によって、身体を訓練・教育する装置です。学校、企業、病院などなど。

しかし間違いが多いのですが、これは必ずしも軍隊のように画一した身体を作り出す強制的なものではありません。目的は経済的な競争力であり、国力に役立つ人材の育成のために、自主的で、向上心があり、創造的な人材が求められます。日本人が4人もノーベル賞を取りましたが、彼らのような人々が国を挙げて歓迎されるのは、日本の生政治の成果とされるからです。

このようなフーコーの権力論は、環境を重視したものです。そこにはデカルト以来の近代の哲学が主体論を中心に発展してきたことへの反動がみられます。主体論は多くにおいて、無時間な構造論に向かいます。そのような静性に隠された動性を政治的、歴史的、環境的に明らかにすることが目指されているといえるでしょう。

しかしそこには逆に主体の不在の物足りなさがあるのも確かです。すなわち「なぜ近代において主体論が重視されたのか」ということを問うことができるのではないでしょうか。なぜ近代哲学の祖がデカルトなのか。デカルトのはなぜいまも重要であるのか。

たとえばクリスマスはもはや世界のお祭りとなっています。これは言わずと知れたキリストが生まれた日ですが、キリストが生まれたときに、その日が重要であったわけではありません。その時代ではただの一日です。それはいつもあとから、事後的に意味を持つのです。だからデカルトもその時代においてよりも事後的に、まさに現代において重要であるのです。




2)旅人デカルトの苦悩


デカルト方法序説を読むと、デカルト「コギト」へと至る経緯が説明されています。デカルトの時代、まだ世界は封建的で、人々は土地に深く帰属していました。その土地に生まれ、生活し、子供を育て、死んでいくことの繰り返し。

フーコーの規律訓練は、意図的に環境を作り出し、身体を訓練する、経験を管理するものでした。封建的な土着においては、意図せず人はその土地の共同体の、規律を学びます。それは主体ではありません。一生変わらない土地の環境に深く帰属し、そして世代を紡いでいくという、規律の伝承体のような役割にあります。

デカルトはその時代では珍しい旅人でした。様々な土地を旅し、様々な土着の規律に触れるうちに、疑問を持ちます。ある土地では正しいものが、ある土地では異なる。果たして、この世界に本当に正しいことはあるのだろうか。そしてすべてを懐疑し続けた、最後に「我思う故に我あり(コギト・エルゴ・スム)」」こそが疑えないということに達するのです。

これは近代哲学史においてはまさに悟りの時ですが、よく考えると、おかしくないでしょうか。ようするにちょっとしたノイローゼです。その時代の多くの人々、特に土着の人々にとって意味不明な考えではないでしょうか。この感想はとても重要であると思うのです。このデカルトの物語は単なる成功物語として読むのではなく、一つの苦悩として読む必要があるのです。

デカルトは、現在人がテレビ番組で、「世界驚きバラエティ」をみて、世界の常識に驚き、楽しむような立場にはないのです。その時代の交通事情も考えれば、デカルトはいくつもの土地で生活しながら旅をした。ある土地にいけば、そのときの習慣に驚くだけではなく、なれなければならない。あるいはそれは規律訓練のように経験として、ある種に強迫的に身体をしみこんでくる。しかしまた次の土地へいくとまた異なる規律を学ばなければならない。特に土着性が高い時代にこのような体験が楽なものではなかったと思います。そのような混乱する苦痛の体験が、すべてを懐疑するというノイローゼともいえるような思考へつながったと想像できるのではないでしょうか。

このような苦痛は現代人にとってはとてもなじみの深いものです。現代は生活基盤が土地よりも、企業への帰属に移り、企業の要求で様々な土地へと移動させられます。そのために現代は国内ならどの土地へ行っても画一した環境が用意されようになりました。コンビニが街のほっとステーションであるのはそのためです。たとえば海外の見知らぬ場所に行かされてもそこにマクドナルドがあればほっとします。それでもやはり生まれた土地を離れて、新たな土地へ行くことはストレスがともないます。




3)いまもデカルトが愛される理由(わけ)


だから現代人はデカルトの隠された苦悩に共感する、ということではありません。そうではなく、デカルトが懐疑し到達して地点とはなんでしょうか。簡単にいえば、それぞれの規律を括弧入れにする、すなわちメタ言語です。ある土地では「A」という規律がある、また別の土地では「B」という規律がある・・・という括弧入れの作業によって、その上位(メタ位置)において、括弧入れする私がいる。経験する私を括弧にいれる上位の私、すなわち自意識です。

ここで重要であるのはデカルトが自意識を見出したということではありません。より重要であるのは、メタ言語という言語操作を行ったということです。このような言語操作なく、自意識(メタ私)は発見できません。そしてこの言語操作は多様な環境の規律という圧力への対処法として作動しているということです。

一生同じ土着の規律に帰属し、それが当たり前あり、そこに充足することができれば、その規律を懐疑する(括弧入れする)必要などありません。規律は反復された経験によって身につけるのですから、すでに身につけた規律を変えることは苦痛です。そして新たな環境にはいる場合にはこの苦痛から逃れることはできません。そのような苦痛の中での新たな環境に慣れるまでの時間に回避する場所こそが、メタ言語という言語操作の位置=自意識なのです。

ここまでくると、現代人がデカルトへの共感する意味がわかると思います。現代人は当たり前のように、日々新たな環境にさらされています。そのような環境からくる規律を訓練するまでもなく、移動を強いられる。そのような流動的な状況の中での、逃避する場所が自意識なのです。

環境の規律に体が慣れるために時間がかかりますが、言語操作は簡単にできます。メタ言語(括弧入れ)によって、自意識という言語世界へ逃避する、そこで環境圧力をやり過ごす。このデカルト「発見」した方法は、現代人にとって当たり前の方法です。

デカルトの懐疑がその後の認識論として成熟し、独我論へ到達します。「この世界に真実はない。」という言葉が現代でもナイーブで中二病な哲学少年たちの逃避場所になっていますのは偶然ではありません。そしてこの相対主義言説の裏で見事にナイーブなコギトが隠されています。

このような逃避はあまりにナイーブでしょうが、もっと簡単にいえば、人はストレスを受けると言語操作によって緩和しようとします。環境と身体は低速にしかか変化にしませんが、そこに言語を介入させることで、擬似的に環境を操作することができます。環境を(言葉で)理解するときに、都合の良いように括弧入れして、受け入れるということです。

ここまでの話にやや飛躍があるように感じる人がしれませんが、このような言語操作についてはすでに研究され体系化されています。それが、フロイトの発明した精神分析です。精神分析とはまさにデカルトが病であるという発見から始まったといえます。(つづく)
*1