精神分析とコスモポリタン <わたくし的読解>三日目

pikarrr2008-10-11


1)近代に発明された主体


昨日の復習からいきましょう。昨日、デカルトのコギトを例に示したのは、近代化という環境におけるデカルトによる「主体」の発明です。人口の増加、それにともなう交通網の発達によって、従来、土着的に環境に帰属することで唯一の規律を体で覚えていた人々が、複数の環境下におかれるようになる。そして規律の入れ替えは人々に新たな経験という圧力を与える。そのような経験の中で人はそれぞれの環境を言語表現として括弧に入れる、すなわちメタ言語として表現すること、上位(メタ)位置から環境を俯瞰する。その位置が自意識としてのコギトです。

すなわち環境との間に言語によって距離をとるときことで、直接の環境圧にさらされることから回避する安全な位置としてのコギトです。「我思う我あり」によってデカルトはこのような自意識を発明した父として現代も認められているのです。

これが心身二元論と言われるのは、環境と接する身体と乖離したところに、環境、身体を俯瞰する精神という確かな存在を確保するからです。デカルトはすべてを懐疑したあとに残るコギトの確実性をさらに神によって保証します。このなにものよりも確かな精神はその後、カントによって理性として確立されます。神に保証された確かな精神(理性)は言語を道具として、曖昧な環境、身体へと介入する。これが啓蒙主義の影響も受けた理性主義的な理念です。




2)言語(シニフィアン)機械としての精神分析的主体


その後、このような理性主義的な心身二元論精神分析によって転倒されます。精神分析が明らかにしたラディカルさとは、確かな精神(理性)があり、言語を道具として使うのではなく、言語そのものが主であり、精神はいわば言語が作りだす影のようなものであるという知見です。

精神分析は身体的な欠陥はないのに異常な反応を示す患者の反応が言語と深い関係があることを見出しました。たとえば夢は何でもありの世界ではなく、言語文法として成立している。このことから言語秩序がある無意識という深層の領域を発見します。言語秩序があるということは逆に夢を言語分析することで、深層の問題点を発見できるということです。

このような精神分析の言語論的な展開は、ラカンによって構造主義として進められ、一つの知的潮流を作り出したことは皆さんご存じだと思います。ラカンフロイトをさらに進めることで主体を言語(シニフィアン)機械のようなであると考えます。人は生まれて言語を学びますが、そこで重要であるのは言語の意味ではなく、言語(シニフィアン)の用法です。人は言いたいことがあり話すのではなく、ある状況に適した用法を発話するのです。

たとえば朝、人にあると「おはよう」というのは、そこに意味がというよりも、無意識に出てくる用法です。ボクが好きな例では、岩崎恭子が中学生でオリンピックで金メダルをとったとき「生まれてきた中で一番幸せです。」と言ったことです。これは、意味が間違っているのではなく、用法が間違っているのです。言葉を学びたての子供はこましゃくれてよく大人の言葉を真似して使いますが、これは言葉を用法として先に学ぶためでしょう。

その言葉をどこかで覚えて使ったのでしょう。用法が微妙に間違っていたのです。すなわち彼女はそのように言わされたのです。誰にか?無意識によってです。ラカンは無意識を「言語のように構造化さている」と言いました。言語(体系)は文化であり他者によって作られてきたものです。だからラカンはこのような無意識を大文字の他者Aと呼びます。すなわち岩崎恭子大文字の他者Aによって、言わされたのです。

さらにこのような考えは、欲望論につながります。たとえばあるブランド品が流行っていると、人はそれがほしくなります。これも大文字の他者(言語としての無意識)によって欲望させられている(言わされている)のです。




3)主体の無時間性


このような構造主義的な主体、主体は言語のように構造化された無意識である、というラカン的な理解の先に、ボクが先に示したコギト理解はつながります。デカルトのコギト(自意識)は近代化によって現れた複雑な環境を回避するために、言語の作用として現れた位置である、ということです。

しかしそれには、もう一展開が必要です。構造主義の問題としてあげられる一つが、このような主体を人間の根源的な構造と考えることです。これはデカルトから継承されてきた主体の特徴です。先にコギトが心身二元論であるといったときに、もう一つの意味として、人間/動物の二元論の意味が含まれています。動物には精神(理性)はありません。ただの身体です。神に似せて作られた人間のみが神によって保証され世界を確実に理解し得る精神(理性)があるからです。すなわちコギトは、先にボクがあげたような近代という時代性とは関係がなく、動物/人間/神という無時間的な世界の構造に根ざしているのです。

そしてこのような主体の無時間性は精神分析の主体にも継承しています。ラカンの言語による無意識という精神は、歴史とは関係がなく、動物ではない人間のみがもつ構造なのです。ラカンはこれを「性関係は存在しない」と言う言葉で表現します。




4)精神分析的主体の歴史的、環境的な意味


ここにフーコーによる精神分析への批判点があります。フーコーはその政治的歴史主義によって精神分析という知の歴史を分析するのです。精神分析は19世紀の末、ウィーンでフロイトのよって発明されました。その時代とウィーンという場所に意味があるのではないかと言われます。ウィーンとはいまでいうNYのようにその時代のコスモポリタンであり、様々な国から人が集まり、多様な文化が交差していいました。先に行った旅人して多様な環境に触れたデカルトがコギトを「発明」したように、ウィーンで人々はさらに混沌とした環境に生きていた。その中でこそ精神分析な主体は現れたのではないか。

精神分析では「人間は一つの病」であるといわれます。誰もが神経症なのです。これは理性主義的な人間/動物二元論の転倒です。理性主義では人間のみが精神よって正しい認識が可能であったのに対して、精神分析では動物が「自然で」正常であるのに対して、人間は言語のように構造化された無意識に支配されている存在であるからです。たとえば最近の自ら殺し合う戦争、あるいは最近なら無駄な消費が生み出す環境問題など、「人間は狂った動物である」ということです。

しかし歴史主義的に考えれば、精神分析がいうように普遍的に人間が病というよりも、近代という時代に発明された主体が病であると考えることができます。なぜ精神分析の主体は言語が「過剰」であるのか。精神分析が言語分析であること、それは精神分析的な患者は言語「過剰」な存在として登場したということです。そこから先にボクが示した近代の主体像につながります。近代という多様な環境に対する防衛策として言語の過剰性であり、環境圧を回避するために、環境を懸命に語る、すなわち括弧に知れようとすることで過剰に言語領域としての無意識が確保されてしますことによって説明されるのではないか、ということです。




5)無意識は言語知か身体知か


確かにこのストーリーには多くの飛躍があるでしょう。だから異なる方向から検証する必要があります。たとえばボクが興味があるのは、人はどのように歩いているのか、ということです。人はどのように足を動かし、体を使っているのかなど考えず、「無意識」に歩いています。ご存じのように歩くことは訓練よって可能になります。そして歩くとはなにを学ぶのか。その訓練によって身につける「無意識」は言語的であるのか。

たとえばどのように右足を出し、左足をだすのか、意識し、理解し、歩こうとすることは可能なのか、それを行うことはあまりに不器用な動作になるでしょう。人は考えずとも、動物がそうであるように、自然に歩くのです。

様々な行為を意識し、理解しようとすることは、人を神経症(ノイローゼ)者にしてしまいます。通常、意識しないで行う当たり前のことが強迫的に現れる。この食堂の食器はきちんと洗われているのだろうか、この友達は本当は僕に好意があるように振るまっているだけではないか・・・言語の過剰は世界への懐疑を生み出します。これが精神分析的な病です。

すなわち環境との間に言語を介入させること、環境を言語によって括弧入れにすること、それはまさにデカルトが生み出した認識論的懐疑である。このような懐疑が哲学的な試験ではなく、無意識となったとき、自らコントロールするほどに深層化されたとき、それが精神分析的な神経症の主体ではないだろうか。これらもまた一つの思考実験ですが、このような多面的な考察から、無意識における言語知と身体(訓練)知を考えていく必要があるでしょう。

今日は、かなり考察的な部分が多かったように思います。やや走りすぎて、納得できない、ついて行けない人が多くでたのではないでしょうか。この当たりは認知科学的なアプローチもできますが、ここではあまり掘り下げないようにしましょう。次回は再度、フーコー的な環境論に戻って、このような主体が現代という流動化する社会でさらにどのように位置づけられるか考えてみたいと思います。




*質問


ではご質問に答えたいと思います。



>言語構造が意識を形作るのであったら、ことばを教えられなかった辺境の孤児に自我は芽生えるのでしょうか。

以前、生まれたときから監禁され、言葉を覚えなかった子供のドキュメンタリーがありました。幼少のある時期までに言葉を覚えなければ、それ以降言葉を覚えることはできないと言われていますが、そこ子供もその後言葉を教えても覚えられなかったようです。そして言葉を持たない子供はまさに知的障害児のようでした。



>「大文字の他者」とは、「主体Sに自分が何んであるかを告げているもの・・・ラカンが大文字で書く大文字の他者Aである。」としているところからして、これを無意識とは出来ないでしょう?

L図ですか。だから告げている者、自分中の他者、言語。だから無意識なのですよ。



>主体Sはそれ自身が何であるかは、大文字の他者=無意識として構造内に位置付けられていると言う解釈でどうだろうか?

だいたいそれでよいと思います。主体Sというのは、大文字の他者Aによって、何者であるか、語られないとわからないのですが、大文字の他者の言葉は迂回させられるのですね。決して充足しないのが主体Sです。理性主義的な主体では主体(理性)があり、言語を使うのですが、精神分析では言語(無意識)があるから主体があるのです。



>歩くことは訓練が不要なのでは?もしそうであるのなら、訓練していない人は歩けない事になる?そこで、訓練とはどう言う事でしょうか?例えば、幼児のころ、自分で立ちあがり、物を伝って歩き出しますが、これは訓練ではありませんよね。あくまで訓練とは、第三者に指導されて規律を学ぶ事だとか、消防訓練の様に言われるのは、消防器具の扱い方や避難の方法を学ぶ事でしょう。ですから、歩行訓練と言う場合は何らかの理由で何歳になっても歩けない子供や、事故・病気によって、歩けない人に対して歩行訓練と言うのではないでしょうか。だから、歩行訓練をしないと歩けないのではないと言えるのではないでしょうか。いずれにしても、フーコーの規律訓練と言う術語は、この歩行訓練と言う言葉とは全く違う概念でしょう?

幼児が、自分で立ちあがり、物を伝って歩こうとくりかえす。これは明らかな歩行訓練ですよ。さらには幼児が親が歩いているのをみることも訓練です。そこには親という環境としての第三者がいるのです。やや神話的な部分があるのですが、狼に育てられた子供は狼のように四足歩行で走ったと言われます。

いわば、ある状況で行為を反復することで体で覚えることすべてが、訓練しているといえます。たとえば都会の人が、雪国に引っ越しする。雪国の人には都会の人とは違って、雪道ではすべらないような足の運び方があります。それは雪国の人の当たり前すぎて意識していないかもしれませんが。そして意図的に訓練するものではなく、毎日雪道を歩くうちに体がなれてくる。雪道の歩き方がうまくなるのです。あるいは人とおしゃべりすることも、多く繰り返せば、自然とおしゃべりがうまくなります。

フーコーの規律訓練はこのような訓練という特性を利用するのです。訓練させたい規律的な行為を促すような環境に閉じこめ、反復させることで、その人にも気がつかないうちに、規律を体に覚えさせるのです。



>近代社会は画一化の道をたどっているように思えますが、

これは今後の主題の一つにもなります。現代は画一化し退屈なのか、多様化し刺激的なのか。ともに正しいと思います。この当たりは後日話してみたいと思います。