ドゥルーズ 管理社会と規律訓練

pikarrr2008-10-12



−−−−貴方は、精神分析学批判としていますが、このあくまでパラノイア神経症への転移による治療を批判し、スキゾ系については無批判であると言うドゥルーズに対する私の見方については、どのように考えるのでしょうか。根本的に、貴方の精神分析学批判についてどの様に考えているのか、何を問題としているのでしょうか。


精神分析は言葉によって治療するのですから、心的要因である神経症を対象としたものです。そして器質(身体)的要因が関係するとされる分裂病(精神病)は対象外です。その後、ラカンは精神病も精神分析で説明しようとしますが。ドゥルーズ精神分析構造主義として知の権威となり、神経症重視した人間像が重視される中で、その反論として分裂病的な人間像を対置させます。ドゥルーズ分裂病を重視するのは流動性を強調するためです。精神分析神経症=言語に対峙して、分裂病器官なき身体リゾーム(=管理社会)。

ドゥルーズの問題は、精神分析を目の敵にするあまり、逆に精神分析を重視しすぎているということです。結局、神経症分裂病の二元論に陥ってしまっている。だからフーコーの規律訓練を精神分析神経症)側に落とし込んでしまう。

フーコーが規律訓練権力で示すのは、構造主義ポスト構造主義という超越論的なフランス思想の言説とは異なる次元を導入しているのです。それは英米系の経験論の言説、具体的には後期ウィトゲンシュタインの言説です。

訓練とは、精神分析的な大文字の他者でも、ドゥルーズ精神分析に過剰に反論する分散=器官なき身体でもない、そのような超越論ではなく、僕たちが日々行っている当たり前の身体の経験です。

もう少し簡単にいえば、身体とはなにかということです。精神分析では身体は、言語(象徴界)に排除された現実界としてネガティブな形でしか現れません。ドゥルーズはこれに対抗して、器官なき身体として、精神分析のネガティブな身体を徹底的に能動的、ポジティブにとらえようとする。それに対して、フーコーはこれらの過剰を排除して、日々歩き、鼻をほじくり、寝っ転がり、という日常の「普通」の身体を導入するのです。




−−−−ドゥルーズについては、神経症・分裂症の二元論ではありえないと思いますよ。全てのポスト構造主義は理性による定義=論理が正なるものと誤謬であるものとの二項的なものや、精神分析で言うオディプス的な「私=主体」大文字の他者と言う二項的な捉え方についても、すべて、その境界を無効にしようとしているわけでしょう。それと、身体性については、恐らく、理論優先の古典主義形而上学に対抗しようとして、使われだした術語で、メルロ=ポンティなんかが最初に使ったような気がします。つまり、身体=本能は思考=理論によって変更されないし、真理と言う基準では計り知れないものであると言う事を示す事によって、理論=理性の嘘を暴いた、暴くためのタームでしょうね。

そこで、貴方も言っているように、身体は理性を否定したが、逆に身体が真理となる、可能性の限界として現れた。そこで、器官なき身体として欲望が器官によって、構造化・機能化・全体化される事を拒否したと言う事だと思いますが。


ドゥルーズ神経症・分裂症の対立にすべて還元するのは、無理があるでしょうが、「アンチオイディプスという書名そのものが構図を表しているね。

理性主義的な精神を転倒したのは、ニーチェでしょ。器官なき身体のイメージもニーチェ力への意志からきています。ニーチェの思想の根にも、すでに転倒という過剰な二元論的なものがあります。フーコーニーチェから多大な影響を受けているわけですが、影響のされ方は身体ではなく、権力論についてです。




−−−−普通の身体と言うフーコーについては、再度読み直しをしたいとは思いますが、この普通と言うのは何なのでしょうね。あなたも言うように、狼に育てられたら四足で歩くのも普通の身体によるのであるうならば、逆に後天的に学習して、いろいろな身体性を身につける事ですよね。そうであるならば、普通とは、帰属する社会での多くの人間のしぐさが現れると所となり、この様な「普通」と言う定義は、共同体毎に異なると言う事になります。そうするとその共同体に属さない他者は「普通ではない」事が、その共同体では「普通になっている」この事から、「普通の行為」とは客観的な意味をなしていない。むしろ、この共同体と言う内部が、その他共同体=他者の「普通」と言う概念=定義を排除すると言う、構造主義の批判点を包含している言葉となるでのではないかと言うのが私のかんがえです。いずれにしても、このような論議は参考になりますし、自分の考えを纏める意味でも刺激的です。感謝します。


そうですね。これがとても重要な点ですね。「自然」「普通」というのは決して、普遍的でも、遺伝的でもありません。あくまでも文化です。だから当然、ある共同体では普通でも、他の共同体では普通ではないことがあります。問題はこれが構造主義のような象徴界による共同体ではないということです。「普通」は言語にはよらない。言語は変化が早く、安易にかえることができすぎる。

共同体の「普通」とは、時間をかけて訓練、経験によって身体で覚える、体に刻み込まれるものです。だから変えることがが難しい。特に子供の時に刻み込まれるために、変えること難しい。言語知よりも可塑性が低い身体知。これが大陸系の超越論(合理論)とは違う英米系の経験論の考えです。詳しくは後期ウィトゲンシュタインの言説です。




−−−−−規律訓練は言わなくても見られてなくても自主的に覚えようとする良い子もいれば体罰をしないとわからない人もいるし獣のように体罰でもわからない人もいて個人差が大きいから一概には言えないんじゃないかな。


性格があるでしょうが、年齢はもっと大きいと思います。効果的なのは幼少の頃の訓練でしょう。何にしても人は幼少期に規範をに身につけますので、その後、新たな規範を訓練するのは難しくなりますね。養育・教育が整備された日本では、生まれたときから、高い規律を訓練されますね。




−−−−何回言っても、内面化=貴方の言う大文字の他者Aは、存在すると言う事をフーコーも認めていますよ。ただ、比重が貴方の言うように監視に重きをおいてフーコーは構造を静態的に分析していると言う事は正しいと思います。もし本当に、貴方が、内面化をフーコーが全然言っていなと言うのならば現代思想冒険者たち桜井哲夫著236P?囚人の孤立化(独房監視)の文面を読んでみてください。「・・・・良心の目覚めうながす手段・・」この良心とは、超自我=規律を内面化するものではないでしょうか。また、同本の319Pパノプチコンのキーワード説明文も参照ください。「・・・自発的な服従を生みだす」としています。この自発性:こそが内面化されたと言うことではないでしょうかね。


微妙な表現になっていますね。でもこれはましな方ではないでしょうか。ドゥルーズを含めて多くは規律訓練を明らかに構造主義大文字の他者)としています。なぜこのようなことがおこるのかといえば、フーコーを解説する人が構造主義を得意とするだからでしょうね。フーコーが導入しようとする英米系の経験論的な視点はもともと良く理解していない。後期ウィトゲンシュタインとか言われてもあまりよくわからないのでしょう。

だから「監獄の歴史」を実際に自分で読むことをおすすめしているのです。たしかにパノプティコのまなざしを強調する箇所が出てくるのですが、ほとんどにおいて身体を強調することで、解説書の説明とは異なる印象をうけると思います。

フーコーはもともと歴史を分析するだけで、体系化した理論の説明はしないのですが、構造主義的な大文字の他者をマクロな権力を否定するし、ミクロな権力分析を目標にしていることは良く語っていることです。




−−−−一つだけ気になるところがありますが、ドゥルーズ:分裂症=器官なき身体リゾーム=管理社会と言う流で、最後の管理型社会を彼がもとめたのでしょうかね。つまり、構造からの解放である以上、フーコーにある管理への問題意識はドゥルーズにはあるのでしょうか。構造が管理システムであるとするならば管理=監視批判であるはずです。おそらく、貴方は、ドゥルーズ的にバラバラになった個々人を国家として、あるいは組織としてまとめるのは放牧された家畜のように、監視が必要であると言う前提がある気がしますね。


ドゥルーズが現代が管理社会に向かっていると指摘しました。主体はリゾームのような規律からの解放されるから、主体を監視ことから管理に向かうということです。ボクは、ドゥルーズフーコーの規律訓練=監視を誤読していることから、このような二項対立がおこると考えています。監視/管理の対立は神経症分裂病の対立からきています。

規律訓練は拘束ではないのです。たとえばいまの日本は高い規律社会です。具体的には必要以上に人に関わらないということが訓練されています。これを儀礼的無関心と言いますが、これはものすごく高度な教育を受けた、高い規律性を持たなければできない行為です。あるいは「空気を読む」というのも同様に高度な規律性があって可能になります。そしてこのような高度な規律性をもった社会であるから、みな好きなように自由でいられるのです。日本にゆりかごから墓場まで発達した規律訓練が、「無法」を矯正し、みなを自由であるように訓練するのです。

それに対して、ドゥルーズが考える規律訓練から管理社会への以降では人を規律訓練せず、環境のみによって管理されることになります。それでは人は無法のままです。無法地帯で環境を操作するのはまさにサファリパークのようにです。現代はサファリパークではありません。ようするに、神経症分裂病の対立、監視/管理の対立のような思弁的な二者選択ではないのです。


ボクは管理社会そのものを否定しているわけではありません。管理社会を実現するには、高い規律性が必要なのです。フーコーは生政治として、生権力と規律訓練権力の併用によって社会は管理されると言っています。管理もまた生権力として環境へ配置されます。無法を規律訓練によって矯正することで管理は有効になる。そしてまた管理された環境が規律訓練を進めるのです。

そして、管理といっても一度作ればそれで終わりでしょうか。監視カメラを付ければ終わりでしょうか。マクドナルドの椅子を堅くすれば終わりでしょうか。管理するもの、管理されるものの駆け引きがたえずあるのです。そのようなミクロの駆け引きから考える必要がある。管理においてもそこは権力関係による政治的な場なのです。

私たちが「管理社会」の時代にさしかかったことはたしかで、いまの社会は厳密な意味で規律型と呼べないものになりました。フーコーはふつう、規律社会と、その中心的な技術である監禁にいどんだ思想家だと思われています。しかし、じつをいうとフーコーは、規律社会とは私たちにとって過去のものとなりつつある社会であり、もはや私たちの姿を写していないということを明らかにした先駆者のひとりなのです。私たちが管理社会の時代にさしかかると、社会はもはや監禁によって機能するのではなく、恒常的な管理と、瞬時に成り立つコミュニケーションが幅をきかすようになる。P350


「記号と事件」 ジル・ドゥルーズ (ISBN:430946288X

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*1:本内容は2ちゃんねる哲学板 「資本と国家と、時々、ネーション」http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1222399221/からの抜粋です。内容は一部修正しています。