なぜ「神の見えざる手」は神経症なコギトを生み出したのか

pikarrr2008-10-23


身体知の極と言語知の極


身体知の極・・・行為論ではすべてが行為であると考える。言語そのものはない。言語は行為がともなって成立するといえる。だからいかに言語を使うかという「身体知」をかんがえなければならない。身体知は繰り返しの経験による訓練により身につけるものだ。知識を学ぶとは言語-意味を学ぶことではなく、言語の使い方を学ぶことである。それは決して静的な言語知識学習だけでは学べない。

言語知の極・・・ラカン精神分析では人は無意識に蓄積された言語によって行為すると考える。人は言語法則によってしか話せないし、行為できない。無意識に言語法則に従ってしまっている。人は動物のように本能に従い行為することはできない。言語、文化に従ってしか行為できない。

この二つの極をいかに調停するか、それが問題です。当然これらは二項対立ではないし、分離することもできない。いまボクが考えている方法は、動的な運動系では身体知が重視され、静的な思考系では言語知が重視される。人は運動するときいちいち考えずすでに行っています。考えは間欠的な行為の確認、判断のみです。確認・判断のような思考は実は行為が行われたあとの事後的な確認であり、思考としてすべてをコントロールしていると信じたい錯覚ともいえる、というものです。




ラカンの言語知と身体知の違いは時間と環境適応


しかしこれではラカンを言語知として十分に位置付けたことになりません。ラカンの言語知は無意識だからです。思考による確認・判断の裏で無意識におこなわれるものが、身体知であるか、ラカン的言語知=無意識であるか、わからない。このようにラカンの無意識は巧妙にできています。

ラカンの無意識はシニフィアンの連鎖でできています。意味(シニフィエ)をもたない。すなわち言語の統辞的な法則性です。身体知は反復された訓練(経験)により動きを構造化するから、ラカンの言語知は身体知と区別がつかない。

しかし身体知にくらべて、ラカンに欠落しているものがいくつかあります。一つは時間です。言語知の習得は必ずしも身体知のように反復した訓練を必要としません。言語知を学べばすぐに身につく。だからラカンは欲望論です。欲望は時間とは関係なく一瞬で感染し、そして習慣化することができる。これはラカンの無意識が構造主義的な共時言語体系によることからきています。

もう一つは環境です。身体知も言語知も重要であるのが「他者」です。他者の真似をすることで学びます。特に言語知は人間のみがもつことからなおさら「他者」が重要です。ラカンが他者の思想と言われるのはそのためです。言語とは他者であり、他者(言語)を通してしか世界とかかわれない。

身体知にとっても他者は重要です。他者を真似ることで身体知は身につきます。しかしそれがすべてではありません。他者がいなくても自然環境へ適応していくことで身体は訓練され身体知を身につけることができます。そのためには時間をかけた訓練(経験)による習慣化が必要です。




光−視覚系と音−聴覚系の「混乱」 


このような対立を考えるときに、養老猛がおもしろい考察をしています。人が環境と関わるとき重大な二つの情報がある。一つが光、もう一つが音です。人の脳はこの異なる質の二つの情報を融合させて世界を統一的に認識しなければならない。それは光−視覚系、音−聴覚系です。視覚系は動画的であり、大量の情報を処理するためにコマ送りの画像として、無時間的、静的に世界を認識します。それに対して音は動画よりも情報量が少ないともとにコマ送りにできない。聴覚系は時間連続的に、動的に世界を認識する。

ここに二つのラインを描くことができます。

光 − 視覚系− 画像 − 無時間性 − 思考系 − 言語知 − 構造主義
音 − 聴覚系 − 音   − 時間性 − 運動系 − 身体知 − 行為論的

養老武は本来、質の異なる光と音を融合し世界を認識することには無理がある。そこに絶えず「混乱」が生じると言います。これを言語知、身体知へのつながると、たとえば問題に対して短時間に言語思考で対応しようとする、すなわち言語知が過多な状態では、運動系がうまく機能せず、考えすぎて行為に結びつかないというような神経質な状態になる。また逆に言語思考、確認・判断を弱め、身につけた身体知(カン)によって問題に対応しようとすると、安易な行為に走ってしまう。




近代化による身体知の調教と言語知の過剰


しかしだからバランスが重要である、ということは安易な結論でしょう。この「混乱」が生物学的な構造に根ざしているならば、避けられないものともいえますが、しかし重要であるのは、このような生物学的な二元論で、自然主義的な誤謬によってすべてを還元するのではなく、文化という環境の中で「混乱」がどのように現れるかを考える必要があるでしょう。

とくに近代の様々な革命(文化、宗教、科学、産業、市民)は人間環境をドラスティックに変えました。デカルト「我思う故に我あり」というコギトに象徴されるように「主体」という思考系−言語知が過剰な人間が生み出されました。その後、主体はフロイトによって神経症という病として分析され、ラカンの言語知の極として表現されます。

あるいはフーコーの生政治分析によれば、近代の生権力は人口増加にともないあらわれた「人口」というマスによって管理し、末端において規律訓練権力として運動系−身体知を包囲している面があります。これは、「我思う我あり」と同様に近代を代表する自由主義の言葉、「神の見えざる手」に象徴的です。

「神の見えざる手」 は人口というマクロな法則性を表しています。より均質な個体(平等)がランダム(自由)に活発に運動するほど、静的な均衡は保たれるのです。これが、近代に発見された新たな統治法則であり、各国がグローバルな国家間の経済競争に生き残るための社会(経済)の基本原理です。

運動系−身体知と思考系−言語知の関係は、運動系−身体知の調教(生の整流)が画一的な身体を作り出し、崇高な精神である思考系−言語知が過剰(神経症)に陥るという疎外論ではありません。自由と平等による活発な運動のために、運動系−身体知の規律訓練という生の整流は必要なのです。そしてむしろあまりに自由で平等すぎる故に思考系−言語知の過剰(神経症のコギト)は生まれるのです。
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