なぜオタクは女を抱きあきたのか

pikarrr2008-10-24


商品として構造化される女性身体


形而上学の表れの特徴はデリダも指摘したように二項対立にある。精神と身体、動物と人間。まったく同様な意味で女性の裸体は形而上学的である。処女と非処女。性器と非性器、乳首と非乳首。

処女と非処女。処女信仰は古くからあるが、いまも男性に、すなわち社会で根強く信仰されている。乳首と非乳首。グラビアアイドルが乳首を出すか、出さないかは大きな境界となるだろう。異なる職業に分類されるといってもいい。

性器と非性器もまた不可思議だ。特に日本では性器の描写は禁止されている。猥褻罪でつかまった写真家が性器の写真を前にどこまでが性器か線をひけと、警察に詰め寄ったという話がある。このように女性の身体は形而上学的二項対立により切り刻まれ、構造化されている。

・・・化粧をする/髪をそめる/ピアスをあける/卑猥なことをいう/キスをする/ビキニ水着をきる/乳首をみせる/ペッティングをする/水商売で働く/風俗ではたらく/アダルトビデオにでる/多人数性交をする/SMをする・・・

これらは簡単にいえば消費の構造である。新品が消費され商品価値がさがる。このような商品としての女性身体はアイドルからAV女優までという連続性を持つが、しかし女性を売りにしている女性に限らず、女性全般にいえる、またこれは男性が女性をみる目線でもなく女性自身ももつ社会的なものである。




オタクのキモさは社会のキモさ


このような商品としての女性を考えるとオタクが好むロリコンの位置がよくわかる。オタクのロリ性はこのような商品としての女性身体の構造の極限にある超越的な純粋性であるセックスしていない、キスしていない、卑猥なこともいったことがない、化粧もしたことがない・・・そしてもはや排泄をする汚れた三次元的な肉体をもたない、という否定の極限の先に現れる不可能性の地点、一度も触られていない究極的な無垢の商品がロリコンである。

処女とは男性との性交渉がない女性であるが、非処女との差異によってうまれる。すなわち「処女」とは性交渉がないという否定的に生まれる否定神学である。性器も同様である。非性器ではない神秘的な部分。それは隠されることでそこに何かがあるように思うという欲望を想起する基本的は構造である。

商品の形而上学(物神性)を最初に分析したのはマルクスである。この女性身体という商品にも同様の物神性を見ることができるだろう。価値が使用価値ではなく、交換価値(社会的な関係性)で決まると言うこと。

ロリはオタクのキモさが生み出すのではなく、社会の中で共有されて商品としての女性身体の構造によって支えられる。オタクが言うところの「ロリ」はこのような社会的な関係性によって支えられ、その極限に生まれる。すなわちオタクのキモさは、社会そのものがもつキモさなのである。




人が商品を買うとは処女を抱くこと


再度言えば、商品化された女性の身体は、マルクスのいう資本主義社会の商品の物神性により構造化された身体である。しかしここに一つの転倒が導入してみよう。女性の身体が商品化されたのではなく、商品が女性の身体化されたのだ。

女性の処女信仰は古くから社会に根付いた男尊女卑思想から来ている。商品はそのような物神性を取り込んだ。すなわち物を商品化するということは、物を女とすることである。人が商品を買うとは処女を抱くことなのだと。

まさにここに資本主義社会が導入した「技術」がある。女という原理によって、物を商品へと変換する。女という否定神学の技術をとおして、欲望を整流する。欲望を整流することによって、商品が生まれる。「商品」とは人口というマスによって欲望され、市場を動かす対象である。

ボクはかつてこのように問うた。「なぜ人は上から二冊目の本を買うのか」。それは、よりよい女性を抱くためだ。よりよい女性はより高い処女性を求める共有された価値体系によって支えられている。現在、女性の身体が商品化されているのは、単に一つの商品の一つとして、細部にわたって再構造化(再商品化)されるためである。もはや女性の身体は多くの商品の一つでしかない。




「ロリ」とは貨幣である


社会における「処女」が反乱することで人々をインポテンツにした。処女を抱きすぎたオタクは、形而上学的に最高の処女である二次元化された「ロリ」にしか興味を持たなくなっているのだ。

「ロリ」は何者だろう。幼児は人間の前(でない)身体であり、動物である。男は精液を女の顔にかけ、女になんとか潮を噴かせようとする。女性に潮をふかせることで働いているのは人間/動物、精神/身体の二項対立である。人間、精神は簡単に嘘をつく、動物、身体こそが嘘をつかないのだ。そう、そして「ロリ」は潮を噴かせる必要などない。なぜなら「ロリ」は動物であり、決して嘘を使いつかないからだ。

結局、「ロリ」とは貨幣である。貨幣とは究極の商品である。貨幣自体は決して消費されない。紙幣の見た目がいくら汚れようがその価値は代わらない。究極の商品として貨幣があるように、女性の身体の究極として「ロリ」がある。




資本主義の「究極への短絡」


オタクは究極の「商品化された女性」=「ロリ」を求める。それは究極の商品である貨幣を求めるように。それが資本主義の技術である消費の基本である。商品とは貨幣と交換されることで、まずはじめに最高の価値が与えられる。経験も訓練も努力の必要がない。それが資本主義の快楽である「究極への短絡」である。すなわちお金さえあればすべてが一気に与えられる。

ナウシカには「外傷」が存在しない。・・・ナウシカが敵を殺傷するシーンで、何が明らかにされているか。そう、それは彼女の戦闘能力が、すでにスキルとして十分完成しているものになっているということだ。・・・彼女は、決してレイプされることのない存在なのだ。「レイプされることのない存在」、言い換えるとなら、いかなる実体性をも持たない「存在」ということである。・・・おそらくすべてのファリック・ガールは、徹底して空虚な存在なのだ。彼女は、ある日突然、「異世界」に紛れ込み、何の必然性もなしに戦闘能力を与えられる。


戦闘美少女の精神分析」 斎藤環 (ISBN:4480422161

追記解説:

一気に解が得られること。そのはじめから完成されていること。これは貨幣のメタファーである。お金で買うことで一気に結果を得る。お金があればすべてすむ。だから訓練、経験の話は人気がない。これは現代の快楽である。人びとがお金を求めるのはこのような快楽による。資本主義社会はそのように人びとを訓練する。このように訓練されたオタクにとってロリは貨幣位置にある。ロリとは一気に「女」のすべてがえられる対象としてある。
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