<環境-調和図式>(全体) 


1 環境と調和

2 自然な状態とは

3 「環境」の導入




1 環境と調和


<環境-調和図式>

以前から環境と人の関係を考慮したわかりやすい図式が必要だと考えていました。それで、<環境ー調和図式>を考案してみました。横軸は環境で人間が重視されているか、縦軸は環境が人間と調和しているか、を表します。



A.<強制>領域・・・人が環境に<強制>される関係

<強制>の領域は、先に環境があり、強制的に人がはめ込まれていく状況です。

交通環境でいえば道がない状況です。そこでは人は環境からの妨害を避けるように歩いて行かなければなりません。


B.<訓練>領域・・・人が環境を<訓練>する関係 

<訓練>の領域は環境が先にあり人がはめ込まれるわけですが、<強制>と異なるのは人は訓練することによって環境に対応します。そして訓練が多く反復されることで環境からの強制があることは忘れられ、環境と調和状態になります。それが習慣です。

交通環境でいえば道がある状況です。道を使用するにはルールがあります。どの部分が通行するべきで、右側通行などどのように通行すべきか。人はそれを学び、その後、習慣化によって、道を通行することが当たり前になります。

この<訓練>の領域の極限に生物界の自然淘汰をおくことができるでしょう。生物は環境とアフォーダンスするように身体形態さえ変化させます。人も進化上の存在ですが、この<訓練>領域は文化による環境への影響を意味します。このような<訓練>領域によって環境と調和されることは、マルクスの言う「類的存在」としての充足と言えるでしょう。


C.<管理>領域

<管理>の領域では人は環境を改良・管理します。そのために<訓練>領域に比べて、環境へ対応するための訓練が最小限ですみ、習慣化するまでの時間が短縮されます。交通環境でいえば高速道路や電車などの高度に管理された状況です。訓練なく速やかに交通できるように環境が管理されます。

この<管理>領域で環境と調和することは、「動物」的な充足と言えます。


D.<感染>領域

<感染>の領域では、人は環境を改良・管理しますが、環境との調和ではなく、不調和が目指されます。交通環境でいえばレースやジェットコースターなどです。交通の本来の目的である効率的に交通することが目指されず交通を困難にします。これはその困難(不調和)を楽しむためです。

<感染>領域では、人は訓練によって環境になれていくのではなく、一瞬で気に入ってしまう。人は不調和に感染します。そして環境が習慣化すると飽きてしまい、次々と環境をかえ感染を繰り返す。これはあえて不調和を求めるということでスノビズム的な充足と言えるかもしれません。



高速化する資本主義社会



このようなA<強制>B<訓練>C<管理>D<感染>において、人が環境と調和するための時間の短縮=高速化の傾向を見ることができます。これは、近代化における環境の変遷、資本主義システムの発展に対応しています。

資本主義の発展の初期では、生産環境は人への配慮なく導入され、人は<強制>された。これはマルクス<疎外>と呼んだ状態に近い。その中で生産性を向上させるために、生産環境と調和した質の良い<訓練>された労働力が求められた。これはフーコーの言う<規律訓練権力>に対応する。

資本主義が高度化する中で、生産環境を<管理>する技術が発展した。人に配慮され設計された環境によって、労力は増幅されて大きな生産性を生み出す。これはフーコーのいう<生権力>に対応する。

また生産の効率化とともに、多様な商品が生み出される。環境との充足は絶えず乱され、欲望が活性化されることで消費が促進される。ここで<生権力><物象化>は相補的に消費型資本主義を活性化する。

A 環境に<強制>される関係   疎外
B 環境を<訓練>する関係     規律訓練権力
C 環境を<管理>する関係    生権力
D 環境に<感染>する関係    物象化



「身体の政治的な技術論」

このように環境とは単に物理的な環境を意味しません。それはフーコーの言う「身体の政治的な技術論」という「権力」に関係します。この存在論的な地平において、実在的な経験論と観念(認識)論はともに語ることができる。

身体の作用の科学だとは正確には言えない身体の一つの<知>と、他方、体力を制する手腕以上のものである体力の統御とが存在しうるわけであって、つまりは、この知とこの統御こそが、身体の政治的技術論とでも名付けていいものを構成するのである。

権力に有益な知であれ不服従な知である一つの知を生み出すと想定されるのは認識主体の活動ではない、それは権力−知(の係わり合い)であり、それを横切り、それが組み立てられ、在りうべき認識形態と認識領域を規定する、その過程ならびに戦いである。

精神は一つの幻影、あるいは観念形態の一つの結果である、などと言ってはなるまい。反対にこういわなければならないだろう。精神は実在する。それは一つの実在性をもっていると。しかも精神は、身体のまわりで、その表面で、その内部で、権力の作用によって生み出されるのであり、その権力こそは、罰せられる人々に・・・行使されるのだろ。この精神の歴史的実在性がある・・・また、知が権力の諸成果を導いて強化する場合の装置こそが、実は精神の姿である。


「監獄の誕生―監視と処罰」 ミシェル・フーコー (ISBN:4105067036



2 自然な状態とは


無意識と暗黙知

暗黙知はマイケル・ポランニーが示した「無意識的」なものですが、言語ではなく、身体知です。たとえば自転車にのるために繰り返しの訓練が必要です。そして訓練の末に一度自転車の乗り方を習得すると人は一生乗り方を忘れないと言われます。しかしどのように乗っているのかと聞かれても答えることができません。ただ乗っているとしかいえない。このような身体知はとても一般的なものです。歩くこと、走ること、投げること、スポーツは身体知の固まりです。だからスポーツ選手は訓練(練習)がすべてです。

このような身体知(暗黙知)は「言語のように構造化されている」でしょうか。そうではないでしょう。ラカンの無意識を言語系の知とすれば、暗黙知は運動系の知です。

ここでわかることは、ラカン理論は「性関係は存在しない」というように強烈なほどに言語に忠実であるあまりに、多くが排除されているのです。言語外を現実界へとひとくくりにして、欠如として排除してしまっているのです。なぜならラカン構造主義者という一つの立場を選択しているからです。



暗黙知神秘主義

しかしそもそも、行為、暗黙知とはなんでしょうか。暗黙知神秘主義的にとらえられるのかは、それが何であるか、まだ科学的に分析されていないからです。たとえば二足歩行のロボットが開発されたのも最近です。人がどのようにメカニズムで歩いているのかさえわかっていません。人はほとんどの行為を意識せずに行っていますが、それがどのようなものであるか、ほとんどわかっていません。

それに比べると、言語は、ソシュール以来、多くの研究がなされ、ラカンを経て人間とはどのようなものであるかを表現する方法論を構築してきました。だから「意識しないもの」を表現する場合にいまだに精神分析的な方法論が有用とされます。



無意識は存在するか

身体知を排除して、構造主義という合理的な世界が組み立てられるのか、すなわちラカンの無意識はそもそも存在するのでしょうか。

人は歩くとき、どのように足をうごかし、どの場所を踏み、歩くなど考えません。ただ「自然に」歩きます。それが近くに地雷が埋まっていることがわかったとき、人は立ち止まり、歩けなくなります。しかしそれでも歩かなければならないとき、地面をよく見て、不自然な場所がないか、それを避けて、足をそろりと運びます。通常、疑いもしない地面への不信感が生まれることで、ただ「自然」とはほど遠い状態が生まれます。

このような状態は、神経症に似ています。通常、多くの人が「ただ自然に」行っていることが、「世界」への不信感から「自然に」行えなくなる。この食堂の食器はちゃんと洗えているのだろうか、誰かが影で悪口を言っているのではないか、誰かが命を狙らっている・・・。

簡単にいえば、神経症とは「考えすぎ」のことです。通常、暗黙知(身体知)で行う「自然な」行為について、言語知が過剰に表出してしまっている状態ではないでしょうか。そのような状態になるのは、頭で考えすぎる、言語によって理解しようとしすぎる、あるいは神経質な性格、内向的で言語過多な性格によって、精神分析的には幼少期の外傷の回帰でもよいのですが、何らかの原因で世界への不信感が芽生えてしまう。「考えすぎ」というのはなんということはないようですが、世界への不信感は人間にとって決定的な問題です。原理的には行為することが不可能=フリーズすることになります。

すなわちラカンいう「言語のように構造化された」無意識というのは、暗黙知(身体知)がフリーズした病んだ状態に現れる「静的な構造体」といえます。精神分析のいう無意識とは神経症な無意識としてのみ存在するものです。「健全な」身体では言語知は身体知と一体となり、動的に作動するために「静的な構造」を持ちません。



不自然な性関係と、限りなく自然な歩行

といいたいのですが、精神分析で言われるように、人はみな多かれ少なかれ神経症であるといえます。たとえば思春期や恋をしたときなど、人は「考えすぎて」自然なふるまいができなくなります。あるいは誰もが悩みをもっていますから、悩んだときにも、自然なふるまいができなくなります。

その意味で、「性関係は存在しない」というテーゼで、人間に「自然な」状態はないといったラカンは正しいといえます。しかししかしそれでもやはり言い過ぎで。自然な性関係はなくても、限りなく自然な歩行はあるのです。それは、無意識ではなく、訓練によって獲得した暗黙知によってなにも考えずに歩いている時です。人の行為のほとんどはこのように考えずに自然に行われます。

さらにいえば、フロイト以来、精神分析がなぜ性関係にこだわるのか。性関係は社会的に抑圧され、安易に訓練することが許されません。だから性関係の暗黙知を訓練することがむずかしい。だから性関係は限りなく言語記号的なもの=セクシャリティとして表れます。そのような傾向は現代では非モテ系のオタクの性対象である二次元(記号)に顕著です。



調和とは疎外でもある

自然な状態とは「環境」と身体か暗黙知を介して調和している状態です。だから歩くということは、重力、大地と身体が調和している、自転車に乗ることで自転車と身体が調和している、それが自然な状態です。その究極は自然淘汰による身体知が身体形に具現化されることであり、その適応した身体と環境とのアフォーダンスな関係です。

しかしこの調和をまた一つの疎外として考えることもできます。訓練によって身体が環境に合わされている。歩くということは、重力と大地の状態に拘束されている、自転車に乗るということは、身体が自転車の構造に規定される。訓練はそのような「環境」に身体を合わせていくことです。このように考えると進化論の自然淘汰「疎外」と言えます。環境に身体形態まで強制されている。(進化論をこのようなことを表現する人はいないと思いますが)

初期の自転車はとても乗りにくいものだったようですが、自転車がもっと人の体に合わせて設計されていれば、訓練などほとんど必要がないかもしれない。というように、現代は電車に乗れば、訓練がなく、より速やかに移動できるように、移動手段は開発管理されています。すなわち少ない訓練で人と環境が調和される。これは図式上では<訓練>から<管理>へを示します。

調和はまた疎外ですが、<訓練>や<管理>は、人があたかも調和しているように感じることができる状態ということです。これが、フーコーが規律訓練や生権力で指摘した権力の形です<強制>のような明らかな身体的な苦痛を与えず、環境に充足(調和)させる権力ということです。ボクが「調和」ということで意味するのはこのようなことです。

再度、環境-調和図式にもどると、以下のようになります。

A 強制・・・疎外により不快な状態
B 訓練・・・暗黙知によって限りなく自然な状態=(マルクスのいう)類的存在的な充足
C 管理・・・暗黙知+環境管理によって限りなく自然な状態=動物的な充足
D 感染・・・ラカン的無意識による神経症な状態=スノビズム的な充足





3 「環境」の導入


「欠如(ないことである)」としての物自体

たとえば天文学「いかに惑星をさがすか」というのがあります。恒星はみずから輝くから「見る」ことで発見されますが、惑星は輝かないので「見て」も発見されません。惑星は、そこに惑星がないと恒星の軌道が説明がつかないという「欠如(ないことである)」として、発見されます。

それとともにこの「惑星」は逆に、物理法則そのものを支えます。なぜなら恒星の動きは、そこに惑星などなくただ従来の物理法則と異なる未知の法則が働いている可能性もあるからです。そうだとすると、従来の物理法則は崩壊します。そこに「惑星」があるだろうことで、物理法則という体系の正当性が保証されます。

カントの物自体は、人間には認識できないが、認識の向こう(超越)にある真実の世界として、超越論的に語られますが、カントのアンチノミー(二律背反)論では、この「惑星」のような「欠如」としての働きをします。

アンチノミー(二律背反)論では、物自体は「超越論的対象=X」と呼ばれ、言語体系上のテーゼとアンチテーゼの矛盾を、超越の領域で整合する点として置かれます。超越を人は認識できませんが、そこに物自体(超越論的対象=X)があることで、人間の認識する現象界(言語体系)そのものが支えられます。

すなわちカントが見出したのは、合理的に世界を説明しようとするときに、しわ寄せとしての言語体系の不完全性をさえる超越論的な対象=Xが必要になるということです。



合理主義の欲望

この場合の物自体は、構造主義でいえば、象徴界を支える現実界に対応します。しかし当然、カントは無意識も、欲望もかたりません。またラカンの欠如はカントよりもハイデガーの現存在の欠如に近いと言われます。

ラカンはこの欠如にフロイト「快感原則の彼岸」、すなわち欲動を重ねます。しかしこれは無理矢理のこじつけでしょうか。そうかもしれません。しかしボクが考えるのは、世界を合理的に説明しつくしたいという欲望が、破綻を乗り越えて作動することで超越論的な点はうまれる。合理論そのものが神経症的であり、精神分析は合理論の神経症性を身を持って暴露した。

すなわちカントやその他の合理論全般に潜む欲望を暴露している、のではないか。しかしこれは単に合理論の問題とはいえません。人が世界を合理的に説明し尽くそうとするとき、性急に言語により世界を理解したいと強く望むときに、あらわれる。このように「ないことである惑星」が体系の正当性を報償する、これを否定神学といいます。



心身二元論の臨界

無意識と暗黙知は、「意識しないもの」心身二元論の関係にあります。ここにあるのは、大陸の合理論の流れと英米の経験主義の流れを見ることができます。構造主義(ポストを含む)は前者であり、ポランニーは後者です。後者には分析哲学プラグマティズムなどがありますが、身体知に近いのは行為論としてのウィトゲンシュタインです。ウィトゲンシュタインは言語を問題にしましたが、発話を実践、訓練によって習得するものとしました。無意識ではなく、暗黙知に近いものとして考えました。

しかしこれらは対立構図にはなく、本来、相補的である以上に一つのものです。だから心身二元論的なとらえ方は人間分析の方法論(イデオロギー)の違いといってもいいでしょう。さらに言えば、人は複雑なものをこのようにそれぞれの面で分解してしか思考することができないとも言えます。

だから心身二元論「境界(臨界)」では、矛盾した様々な言説が飛び交います。ボクは、このような否定神学も臨界の言説の一つだと思っています。

たとえば行為論もまた身体側から「臨界」へ近づくとき、矛盾した言説に陥ります。たとえば有名なものが人工知能のフレーム問題です。フレーム問題を突き詰めると人はフリーズして行為することができなくなります。それを乗り越えるのが暗黙知です。言語によって作られた人工知能とは異なり、人間には暗黙知がある。しかし暗黙知とはなにかはまだよくわかっていない。すなわちここでは暗黙知否定神学的な役割をもつ、超越論的シニフィアンとして作動しています。

合理論、構造主義、哲学そのもの、すなわち体系化を試みる言説は否定神学にむかう。それは神経症の構造なのです。人間は暗黙知によってのみ「自然に」振る舞うことができない。無意識は言語をつかう人間のサガ、人間という症候です。



心身二元論「環境」という共通基盤を導入する

再度言えば、暗黙知と関係しない純粋な無意識も、言語と関係しない純粋な暗黙知も存在しません。だからボクが示した<環境-調和図式>は、あえて、心身二元論の構図を持っています。何度も言うように経験論と合理論を同じ地平に示すというのは、現時点では融合することが難しい心身二元論を、あえて心身二元論として、同じ図式にのせるということです。

それは心身の境界に存在論レベルで差延(差異と遅延)を持ち込む、デリダ的な存在論とは違います。もっと超越論(合理論)と実働(経験論)を対峙させる。そこで重要になるのが、心身二元論「環境」という共通基盤を導入することです。環境で働く超越論そして経験論な力関係(権力)を検討すること、それはフーコー的アプローチです。

身体の作用の科学だとは正確には言えない身体の一つの<知>と、他方、体力を制する手腕以上のものである体力の統御とが存在しうるわけであって、つまりは、この知とこの統御こそが、身体の政治的技術論とでも名付けていいものを構成するのである。

権力に有益な知であれ不服従な知である一つの知を生み出すと想定されるのは認識主体の活動ではない、それは権力−知(の係わり合い)であり、それを横切り、それが組み立てられ、在りうるべき認識形態と認識領域を規定する、その過程ならびに戦いである。

精神は一つの幻影、あるいは観念形態の一つの結果である、などと言ってはなるまい。反対にこういわなければならないだろう。精神は実在する。それは一つの実在性をもっていると。しかも精神は、身体のまわりで、その表面で、その内部で、権力の作用によって生み出されるのであり、その権力こそは、罰せられる人々に・・・行使されるのだろ。この精神の歴史的実在性がある・・・また、知が権力の諸成果を導いて強化する場合の装置こそが、実は精神の姿である。


「監獄の誕生―監視と処罰」 ミシェル・フーコー (ISBN:4105067036