なぜ東浩紀はすごいのか。

pikarrr2008-10-29


動物化という新時代宣言


東浩紀を象徴する言葉といえば動物化でしょう。動物化という考え方は既存言論のカウンターと位置づけられます。日本の言論文化には文化サヨ的(主知主義的)な傾向が根強く残ります。「世界を理解しつくし世界を設計しなおせる。」このような傾向は東の登場前にすでに時代遅れなものと考えられ、パロディ、アイロニーへの転倒が行われていました。しかしこのような転倒さえ重たい。そこにはまだ言葉(思想)への執着がある。すでに若者はもっと軽く、世界にアディクションしていると訴えたのが東の動物化です。

これは社会への訴えというよりも、言論文化への訴えの意味が大きいでしょう。それまで時代の寵児とされていた浅田や宮台なども、もはや新たな若者文化からはズレているという新たな世代の言葉の到来を宣言したといえます。

そしていつの時代も一定数いる言論少年たちはいままでの言論を言語過剰で古いものと感じており、時代にあった自分達の言説として支持しました。さらに動物化はオタク新人類論としても受け止められ、オタク周辺で大きな反響を呼びます。そして一躍、新たな言論人として受け入れられました。




日本初のポスト構造主義者?


構造主義以降のフランス思想は世界に、そして日本の文化人へ大きな影響を与えました。東の言説も同様にフランス思想から強い影響を受けています。さらに柄谷の影響が強いといわれています。

柄谷は「探求」によって、ポスト構造主義に位置づけられるデリダと近い「境地」に達したといわれていました。しかし東は初著であり、デリダと柄谷を読解した存在論的、郵便的ジャック・デリダについて 」ISBN:4104262013) (以下郵便本)で、柄谷の脱構築デリダ脱構築を明確に分けます。その読解によって、構造主義の亜流的な位置付けであった日本でのポスト構造主義理解を一新しました。

東の動物化論も彼の郵便本のデリダ論からの連続性をみることができます。構造主義的な「主体」ラカンに特徴的なように言語によって無意識を構造化された主体であり、言語をもつという動物とは差異化された「人間」です。東が動物化論を展開するとき、構造主義に対峙するポスト構造主義の立場、すなわち「人間」という形而上学脱構築する動物化を意味します。すなわち「語りすぎるな。(大きな)物語はもうない」ということです。




東の「開き直る勇気」への共感


その後、東は多くを対談に費やしましたが、それらの多くが宮台、大澤、斎藤、北田など旧来の言説を「人間」的すぎる、あるいは否定神学であると、人間/動物の構図(の解体)を強調しつつ議論しています。その中でも象徴的であるのが、「解離のポップ・スキル」ISBN:4326652888)でのラカン派の斎藤環との対談です。まさにデリダ派(動物派)とラカン派(人間派)の「因縁」の対決です。ここでは東が単に主体論のみならず(主体論だけでは分が悪い?)、主体をとりまく工学化される現代の環境へと言及しているのが特徴的です。

これらの対談の中で東の立ち位置はより明確になっていくとともに、浮き彫りにされるのが他の論者の言語の過剰さでしょう。それは逆にいえば東の「普通さ」です。ボクたちは日常生きている感覚では、東の動物化はとても普通な感覚であり、共感を覚えるものです。

さらに、対談する彼ら自身も自らの言語の過剰さは職業病(職業倫理)のようなものとしてわかっているのでしょう。そして「言語を諦める言論人」という東の「開き直る勇気」は逆に彼らへの共感ともなったのではないでしょうか。




「環境管理権力」


東の有名なもう一つの言説は「環境管理権力」です。もはや情報社会を語るうえでのスタンダードになりつつあります。(立ち位置)宣言的な動物化より、こちらの方が学術的な評価は高いのではないでしょうか。「環境管理権力」論ではローレンス・レッシグの情報社会のアーキテクチャ論を参考にフーコーの権力論を、より現代的に展開しました。ここにもポスト構造主義の影響から連続性があります。

東が環境管理権力を説明するときに対比するのがフーコーの規律訓練権力です。東はフーコーの規律訓練権力を構造主義的なものとして位置づけます。言語により規律を内面化していくように教育していく。それに対して環境管理権力は言語と関係せず、気がつかないうちに身体に働きかける権力です。

有名なマックの例でいえば規律訓練権力では張り紙などで長居しないように教育する。環境管理権力は椅子を固くすることで客が気がつかないうちに長居しないようにする。情報化社会ではこのようなアーキテクチャによる高度な管理が行われているということです。

これは動物化とも深いつながりがあります。規律訓練権力社会に生きるのが「人間」であれば、環境管理権力を生きるのが動物化です。そしてさらに東の環境管理権力論、そして動物化論が共感を呼んだのは、このような変容を肯定したことです。環境管理権力、動物化の何が悪いのか。それは規範、理性的な「人間」が正しいという漠然と残る常識への反論であり、若者の最近のライフスタイルを肯定する言説として支持されました。




郵便本は工学的な「限界の思考」


東思想の原点となった郵便本の魅力とはなんでしょうか。デリダ論というテーマ、内容的に決して受け入れやすいものではない。さらにあれから多くのデリダ論が出版されているにもかかわらず今だに人気があるのはなぜでしょうか。

ボクはその要因の大きな一つに東のもつ工学的な思考センスがあるとおもいます。それまで日本ではデリダは難解で抽象的な哲学者として理解されていましたが、郵便本ではみごとに思想史の中のデリダの位置付けを明快に「工学的」に解説されている。

たとえば思想に工学系の思考を導入し、パラダイムを起こすことはめずらしいことではありません。ここでいう工学系の思考いうのは工学知識ということではなく、論理的な思考形式です。たとえばカントは人間の思考の経験論的な限界を突き詰めます。その結果は現代の認知科学による人間科学に近い面があります。このような「限界の思考」ウィトゲンシュタインラカンなどにも見られるものです。

デリダも実は同様な思考を持っています。たとえばデリダの弟子のベルナール・スティグレールデリダ思想を応用して技術論を展開していますし、最近生まれた新たなメディア伝達論であるメディオロジーでもデリダの概念が重要な位置を占めています。これはデリダの言語論に工学的な面があるだけではなく、工学的な限界の思考を持つからです。




技術者 東浩紀


東がデリダに惹かれたのは、彼の学術的経歴が工学系であることが影響しているのかもしれません。そしてデリダの中に明快な工学系の思考を見出し、郵便本ではみごとに解読してみせた。いまでは郵便本はデリダの解説として様々に批判されますが、その批判の多くは技術的、経験論的に解説しすぎることによると思います。たとえば悪名高い郵便的を「超越論的な複数性」として理解するなどはその典型でしょう。

おそらくデリダか東の解説を知ったとすれば、私の思想とは別物だというでしょう。そして東はいうでしょう。「師匠違うんです。動物たちにはこれぐらい技術的に説明しないとあなたの思想は伝わらないのですよ。」と。

東のデリダから継承された工学的な思考は、明らかにその後の動物化論、環境管理権力論に継承され、東の言説の魅力となっています。




東世代論の困難


東がオタクだからでしょうか、東は世代論を重視する傾向があります。宮台、大塚などの旧世代より動物化(非言語)という新世代の位置を重視します。柄谷思想の乗り越えとしてのデリダ論にもその傾向が見られます。

しかし東思想がより広く受け入れられるためには、このような世代論、立ち位置重視は障害になっている面があります。なぜなら社会通念には人間は動物であることがもはや一般化しているからです。いまテレビなどで「人間」を語るのはだれでしょうか。最近なら養老猛や茂木健一など脳科学者です。人間は動物どころか「物」なのです。だから社会的に社会学者、哲学者に求められているのが、人間=物という言説に対して、「人間」を救う倫理的位置です。そのような立場として宮台や斎藤環はマスメディアによばれます。

このような状況の中で、東の立ち位置はとても中途半端なものになっています。「人間」「物」との間で「人間」から動物化した(差延した)位置。それは、言語論壇では新たな政断を象徴する位置でも、社会全体でみればとてもわかりにくものになっています。マイノリティな論壇の中に回収されています。だから東がかろうじてマスメディアに呼ばれるのは加藤事件のときのようにオタク評論家としてです。




「いまも批判理論は可能か」


確かに脳還元主義を批判することも、またただのエンターテイメントとして笑うことも簡単でしょう。彼らと比較する意味にあまり意味はありません。しかしこのような状況から今後、東の思想をより広く浸透させていくためには新たな戦略が必要になるでしょう。それはそもそも「いまも批判理論は可能か」という現代思想の大問題にもつながります。

濱野智史荻上チキ、福嶋亮大などの東チルドレン、あるいは東の劣化コピー天野年朗など確実に育っています。あるいは宇野常寛のように東の後続世代としての立ち位置を主張する者が出てくるのは東がそうであったように当然のことです。これらを背景に世代論を越えた新たな展開を見出す必要があるでしょう。それが「思想地図」ISBN:4140093404)であり、ゼロアカhttp://shop.kodansha.jp/bc/kodansha-box/zeroaka.html)という模索であることを期待したいと思います。