なぜ高度資本主義では人はナイーブで孤独なのか 耕作技術としての国家論1

pikarrr2008-11-03


規律訓練権力=畑を耕す、生権力=作物を育てる


フーコーが指摘した近代に全面化した権力、規律訓練権力と生権力の関係をわかりやすくたとえてみよう。規律訓練権力とは荒れ地を耕すことである。近代初期に国家により大改革が行われたのである。学校、病院、市場、流通、監獄、軍隊、都市整備、公衆衛生・・・最初に荒れ地をたがやかすのはたいへんである。そこには強制的な力が働く。しかし一度、耕された畑は次には労力は少なくてすむ。社会が規律訓練装置として整備されてしまえば人は幼いときから高い規律をもち育つ。

生権力は「生かす権力」である。耕された畑に種を播き育てることといえる。作物は育つように訓練することはできない、ただのびのびと自由に育つように環境を「調整・管理」するのみである。

作物はまず耕された農地がなければ育たない。荒れ地をいくら管理しようが作物はそだたない。耕された土地に種をまき、継続して管理する。規律訓練権力は強制、生権力は自由という対立で考えられることがあるが、規律訓練された社会、すなわち耕されて大地がなければ、作物の生育、生権力ははたらかない。




生権力のナイーブさ


生権力はマクロな経済活動が活発化することが目指される。必要以上に国家が干渉せず「神の見えざる手」(統計的な均衡)に任せることが基本とする。すなわち生権力では貨幣交換がベースにされる。だから生権力の作物を育てるというナイーブさは、貨幣交換のナイーブな仕組みに関係している。知らない者が、価値の交換を価値の代替品(貨幣)ですませるという仕組み。このような仕組みは高い社会秩序=よく管理された大地に支えられていなければ困難である。

たとえば経済活動はグローバルになっているが、株式市場などは先進国を中心に行われる。治安が不安定な地域にだれが投資するだろうか。そのような国の通貨を誰が信用するだろうか。国家という形態をとり、国家権力による社会秩序が築かれ、なおかつ国民にそれなりの規律教育された基盤がなければ安心して、その国と経済活動などできない。

このような社会秩序という基盤を支えているのが規律訓練権力なのである。それは暴力的な国家権力でも、正当な法権力でもなく、社会という大地をミクロなレベルで耕すこと、人々に社会秩序を訓練させることである。




自由という孤独


生権力が発達した先進国の社会では価値多様で自由であるといわれるが、その根底には規律訓練された身体がある。だから生権力的な自由は無頼な自由ではなく、「消極的な自由」である。互いに必要以上に干渉しないことを「暗黙の了解」とする自由である。

生権力が市場に支えられているということは、また自由が人と人との関係が商品と商品に代替される物象化によって支えられていることを意味する。このように不干渉は秩序を保っている。さらに不干渉の中でも「暗黙の了解」は規律訓練においても最高難度のものであり、そのような高度な規律訓練が行われた者のみに生権力な自由は許されるのである。

すなわち現代の自由がとても繊細な(ナイーブな)構造に支えられていることを示している。貨幣によって支えられ、人々の不干渉によって支えられている。だから高度資本主義社会では人々は自由であるほど孤独でナイーブになる。