なぜガリガリガリクソンは死ぬほど面白いのか

pikarrr2008-11-24


狂気の笑いは鳥居みゆきで終わった


笑いには、「ボケる→観客笑う」の間に「ボケる→小さな間→観客笑う」というように、「間」がある。笑いとは緊張と緩和だと言われる。ボケは非日常であり、場に小さな緊張を生み出す。それが「間」である。そして一瞬でそれがボケであることが了解され、緊張が緩和されることで笑いが生まれる。一瞬の「間」のあと観客が一斉に笑う。ここではボケがあえて行われた演技=アイロニー(ユーモア)ということをみなで了解しあう。

しかしもはやこれだけお笑いが氾濫している中ではちょっとしたボケでは緊張は生まれない。緊張が生まれなければ、笑い(緩和)もない。だからここしばらく、流行っていたのは「狂気の笑い」である。

いまや刺激を生み出さなくなったHGや小島よしおなどもそのはじめは、この人はほんとうに危ない人なのではないかという不気味な存在として登場した。その狂気によってボケに緊張を生み出したえたのだ。

だから彼らが売れて、普通の人であることがわかってしまうと、もはや笑いは生み出されない。そしてここしばらく継承されてきた狂気は鳥居みゆきで終わった。本物が登場してしまうと、もはや笑えないだろう。




お笑いの高等化とKY社会


そして、再度、笑いは芸に回帰している。新たな笑いの形。それがすべり芸である。すべり芸とは、すべることで笑いをとる。通常は「ボケる→観客笑う」であるが、すべり芸「ボケる→すべる(変な間)→芸人苦笑い→観客笑う」

すべり芸自体は新しいものではないだろうが、「笑い」そのものをアイロニーに扱うという新たな方法論として研究されている。ボケ、つっこみに「すべり」を組み込むことで、新たな緊張(間)を生み出す。笑いがアイロニー(ユーモア)なのだが、その笑いそのものをさらにアイロニーに扱う。裏の裏。これによって「オードリー」などより高度なテクニックをもった笑いが出てきている。

このようなお笑いの高等化が日本人の笑い(アイロニー)のセンスを向上させているということがあるのだろう。「空気を読む」アイロニーである。場が共有されている=空気があるということにアイロニカルである、ということだ。だから「空気読めない(KY)」アイロニーをもてない人ということ。KYなどの言葉が流行るのも、テレビのバラエティ、笑いの影響が大きいのだろう。そしてより裏の裏というアイロニーは複雑化している。




ガリガリガリクソンはKYを嗤う


ガリガリガリクソンはすべる以上に「引かれる」。キモい容姿と、引くようなキモいボケで引かれたところを、たたみかけるようにまたキモくボケて引かれる。「引かれ」の連鎖。ガリガリガリクソンのキャラは実社会でもいるキモいオタクあろう。コミュニケーションべたで、間が持たなくてどんどん一人しゃべりで回りから浮いてしまう。

ガリガリガリクソンはそのようなKYを演じている。それは「空気読めない(KY)」を笑う。空気を読むことの滑稽さを笑う。そしてそれを笑えない観客を嗤う。「引かれ」れば「引かれ」るほどに腹を抱えて笑ってしまうのは、ボクだけではないはず。(笑

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