なぜ人々を集めるところにコンベンション(黙契)は生まれるのか コンベンションと統治技術 その1

pikarrr2008-11-28


1)コンベンション 贈与交換と「シニフィアンの規則性」


人々を集めるところに集団的秩序、コンベンション(黙契)が生まれる。それは環境圧が高いほど助け合いが必要であるからだ。助け合いは贈与交換として生まれる。困った人を助けること。そこに助けてもらったからその貸しを返さなければと負債感を与える。ここに負債(引け目)の連鎖がうまれる。ある貸し借りという交換が継続した絆、信頼関係として延滞されつづける。

貸し借りという交換であるということはそこにゼロがある。負債感の基準としての公平感である。これは時間的、量的に漠然とした質的なものである。階級社会であっても忠誠や尊敬によって公平感が十分維持される。

贈与交換の連鎖は反復されることで慣習化し、象徴秩序になる。このような反復は外部からの純粋略奪/贈与が反復性をもつからだ。農耕を中心にする場合には自然環境ももつ四季という反復性の中で生きることになる。作付け、収穫など人手が必要な時期では交代に助け合う。

象徴秩序ではそこに暗黙の掟(規範)がある。そして公平感が埋め込まれている。人々は秩序全体を内面化しているわけではないし、さらに暗黙の掟(規範)に従おうとしたり、公平感を満たそうとするわけでもないひとりひとりただ毎日行うこと、習慣を反復するだけである。

これは構造主義的な象徴秩序の特徴である。秩序はシニフィアンの規則性」に従うだけであって、シニフィエ(意味)は関係しない。ここでいうシニフィアンは言語であるかどうかではなく、意味(シニフィエ)なき法則性を表す。象徴秩序の掟はなぜそうであるのか、ではなく、規則性としてある。




2)主権者の登場 ゼロ記号と法権力


このようなコンベンショナルな象徴秩序はなぜそうするのかと突き詰めていくと一つの消失点に行き着く。そして逆に消失点は象徴秩序全体のつり上げ点となる。簡単にいえば、なぜ掟を守らなければならないのかと問い続ければ、最後に神をおかなければならない。神がなければ、象徴秩序は破綻する。

なぜ掟を守らなければならないのかという懐疑はそれぞれの人々の習慣の中では現れない。人々はただ行っているだけである。このような懐疑が持ち上がるのは、象徴秩序の境界においてである。習慣によって対処できないような非常事態において、問題になる。どのような社会においても例外状態は訪れる。象徴秩序への外部の侵入である。外部とは予測されない自然環境の変化であり、敵の来襲である。

構造主義的には消失点とはゼロ記号(超越論的シニフィアン)であり、神が現れる。そして例外状態において実際に神の代理として決定する者が求められる。ここにシュミットの「主権者とは例外状態において決定する者である」というテーゼが現れる。

贈与交換を基本とするコンベンションは、負債の交換という身近な者たちを中心にするために力のおよぶ範囲に限界がある。だから人口の増加は多数のコンベンションを生むことになる。このようなコンベンション間も慣習化によって象徴秩序として有効な関係を維持することが可能であるが、多くにおいてコンベンション間には戦争が生まれる。

戦争の反復によって勝者は敗者を取り込み集団は大きくなるが、大きな集団はコンベンションによってのみで秩序をもたらすことは困難になる。その他の装置が必要になる。戦争は例外状態であり、主権者を求める。そしてコンベンション間の戦争の反復は必然的に決定者としての主権者を強化する。




3)規律訓練権力と貨幣交換


強力な主権者が大きな集団を統治する方法は、主権者が執行する法権力であり、それを遂行するための暴力である。しかし大きな集団においても、法権力や暴力はあくまでも補助的なものでしかない。人々は日常を法や暴力を意識して生きるわけではない。身近な贈与交換を基本とするコンベンションによる地域コミュニティを中心に生活をする。すなわち秩序の中心はコンベンションであることにはかわりがない。

ただコンベンションもまた変容する。象徴秩序としてのシニフィアンの規則性」は村社会の中で生まれながらに自然に身につくだけではなく、大きな集団に適用した形へと変容する。
権力も日常レベルでシニフィアンの規則性」へと組み入れられて習慣として人々へ浸透していく。そして大きな集団におけるあらたなシニフィアンの規則性」はより積極的に規律訓練権力として教育されていく。

その中で重要であるのが貨幣交換である。生活の中で食料・日用品を手に入れることは生存に直結する差し迫った問題である。大きな集団においてもコンベンションが維持されていれば贈与交換は有効であるが、都市のように物理的に様々なコンベンションに帰属する人々が流動的に集まり生活する場ではあらたな交換様式が求められる。

それが貨幣交換である。貨幣交換の大きな特徴は贈与交換のように相手を選ばないということである。貨幣を持っていれば、はじめてあった人でも商品と交換する。そのかわりに知らない人と交換することは略奪の危険がつきまとう。それは人を騙そうという貨幣交換を理解した上での略奪だけではない。贈与交換社会に生きる人々は私的所有の感覚さえ希薄であり、ある商品がどのぐらいの貨幣価値と等価であるのかを短期間で交渉する等価交換は慣れない高度な行為である。

貨幣交換が主に都市の市場(いちば)のように、大きな集団の統治下で行われたのはそのためだろう。貨幣交換が社会に広く浸透するのは、国家が生まれて、社会全体の都市化が進んでからのことである。

現代人には当たり前である貨幣交換システムであるが、貨幣交換もまた規律訓練によって身につけるものである。そして貨幣交換は新たなシニフィアンの規則性」の規律訓練化として行われている。自由主義的にいえば、人々はただシニフィアンの規則性」として貨幣交換を行うことで、市場は均衡という秩序を生み出すのだ。この市場の全体性は人々の外部性としてしかないのだ。




4)国家権力 習慣秩序から教育秩序へ


再度言えば、大きな集団でも集団の秩序(治安)は人々がシニフィアンの規則性」による習慣的秩序を基本とする。しかし村社会と異なり、コンベンション間の戦争の可能性から、シニフィアンの規則性」は規律訓練が重視される。すなわち法権力、市場制度という主権者の意図を組み込んだ教育が行われる。それでも治安の不安定である場合には、主権者による暴力的な行使が行われる。

絶対主義時代に、地域的な領主が国家への統一された背景で重要なことは、火気による強力な武器の発明と、市場の巨大化(貿易の活発化)があげられている。領主のまとめ役でしかなかった国王は、巨大化する暴力と経済力が取り込むことで、地域領主の権力を抑えて、絶対主義的な国家統治を可能にした。

そこでも重要であるのが規律訓練である。地域の民族的なコンベンションは弾圧されて、国民として教育される。それは知識として以上にシニフィアンの規則性」による習慣へと介入する。

国家は自国内統治すること、「内政」のみが重要であるわけではない。国家はそのはじめから国家間の均衡として発達した。暴力と経済力の均衡のために国家間の競争関係であり、貿易や武力協定など互いに均衡しながら力を増加させていく。そこにはじめて「欧州」という地域は生まれた。これからの均衡する力の向上ために、国民はあるときは基本的に労働者として経済力を高め、また時に軍隊として働く。そして国民は規律訓練によって均質化することで分業としてより巨大な力を生み出す。




5)民主制 平等・自由の不可能性


民主制において重視されるのが、自由、平等である。平等はコンベンションの贈与交換による公平感とは違う。公平感は主観的なものでしかない。地位の格差があってもコンベンションとして埋め込まれて、公平であると考えていれば公平なのであり、さらには贈与交換は時間的にはいつか返礼されるだろう延滞されることで、決して等価にはならないのである。等価になるだろうという信頼関係が公平感を支えている。

それに対して平等は客観的で短期な等しさを目指す契約である。平等が重要であるのはコンベンションの限界による。コンベンション群間の闘争を越えて、大きな集団において、上からの強制的な公平性として、平等は法権力として現れる。だから平等はそれぞれの個性や所有の差を排除するという暴力性をもつのである。

自由もまたコンベンションと対立する。コンベンションは個人を集団的な秩序へ埋め込む。しかし自由は自由勝手ではない。何らかの秩序の元での自由でしかない。自由が社会的に全面化するのは自由主義経済によってである。自由主義経済では活発な交換がめざされる。

貨幣交換にそれを支える秩序が必要とされるように、経済的な自由を支えるためには先に示したように国家による統治が不可欠である。しかしそれは無法地帯に陥らないためであるとともに、コンベンショナルな贈与交換を抑えるためである。

平等にしろ、自由にしろ実現するための障害は秩序なき無法地帯よりも、コンベンションとの対立である。コンベンションは集団の根源的な秩序である。コンベンションは平等も自由も目指さない。平等、自由はコンベンションを抑圧することでしか実現しない。




6)現代のコンベンションの透過


現代人は理念的には平等、自由の重要性はわかっているし、実行しているつもりであるが、実生活においてはコンベンショナルである。コンベンショナルとは身近なものを贔屓するだろうし、身近な習慣に埋め込まれることで、過剰な自由は歓迎しない。現代においても人々はコンベンションを社会秩序の基盤としているのだ。

コンベンションは雑草である。大災害が発生し、社会システムが機能不全に陥っても、コンベンションは作動する。そのときこそ人々は助け合うだろう。無法地帯では略奪が横行するだろうが、これはコンベンションと対立しない。略奪とはコンベンショナルな集団間の戦争である。ある略奪集団と治安維持集団との戦争である。

現代は法治国家である。しかし人々は法についてどれだけ知っているだろうか。窃盗罪、殺人罪。しかし人のものを盗んではいけない。人を殺してはいけない。は法である前に規範である。ボクたちは法をくわしくしらなくても社会の規範として守ることを訓練されている。それは社会環境であり、規律訓練として学び体で覚える。懸命に守ろうとしなくてもすでに守っている。

貨幣交換も同様である。現代では法権力、市場は規律訓練と環境設計としてコンベンションにつながるのだ。たとえば現代の贈与は貨幣交換を通して行われる。貨幣商品交換は原理的な等価交換などではない。現代で消費するとは、買ってくださいに対する、買ってあげること。擬似的なコンベンションへの帰属である。ボードリヤールが示した記号消費とはあるコンベンションへ帰属するためのチケットである。これはマルクスと物象化にもつながる。人の関係が商品の関係にかわる。

あるいはナショナリズム、さらには企業への忠誠心などとして働く。しかしこのような法、市場というとのコンベンションは弱まるとともに広域に浸透している。

だからコンベンションを無視して、平等・自由を重視しすぎることは、身近な人間関係を分断し危険でさえある。たとえば最近の新自由主義格差社会では、コンベンションを越えて自由を重視してしまったために悲惨な格差を生み出した。格差はいつも時代もあるが、新自由主義の格差が悲惨であるのは、人々が経済的な自由を重視することで、コンベンションが分断されて孤立してしまったことによる。いつも格差は贈与関係という貧しい者同士の助けあい、「貧しいながらも楽しい我が家」として緩和されてきた。

しかしコンベンションを無視する言説の本当の危険性は、むしろ勝ち組は助けあい(コンベンション)によって、弱者を排除することで、富を独占してきていることによる。国家社会主義においても、コンベンションを越えて平等を重視したが、そこで起こったことは、勝者のたすけあい(コンベンション)による権力の独占である。

社会主義にしろ、新自由主義しろ、これは原理的な間違いではない。うまくシステムが作動しなかっただけである。平等が徹底されれば、自由が徹底されれば、きっとうまくいく、というのがいいわけであるが、ここで忘れられているのが、集団秩序におけるコンベンションの根源性である。