なぜ2ちゃんねるは無差別連射レスの時代になったのか

pikarrr2008-12-07


ネタ的コミュニケーションからレス物量化へ


2ちゃんねるの限界が見えてきているんじゃないでしょうか。常接、ケータイから大量にレス可能になり、もはや削除などの管理が追い付かない。かつてネタ的コミュニケーションと言われていましたが、もはやそれもどこへやら。ただレス物量化してしまった。大量にレスしたもの勝ちの世界です。そうすると、暇で反射的なレスをするものが勝ってしまう。

これはいまさらということですでに何年も前から2ちゃんねるの終焉」はいわれていた。あと聞きですが哲学板もまともに機能したのは最初の一年ぐらいでしょう。2ちゃんねるがまだマイナーでダイヤル回線でコストもかかり、レス物量が限られていた。

最近、ここで哲学的な発言を続けていることを不思議がられるようになってきました。確かに気がつくと他にだれもいなくなっている。かつては淡々と「哲学」する人がごろごろいましたが。いまは哲学好きで2ちゃんねるに居続ける奇特な人はいなくて、即ブログへと向かうのでしょう。ブログ界隈もアルファーブロガーを中心に論壇的によく機能するようになっていますし。




荒らしをすることの困難


だからスレッドが荒らされるといってもそこに「荒らす」というほどの意味はもっていないと思います。銃からマシンガンの時代、それも照準のないマシンガンで大量に無差別に連射され、その一部が流れ弾として飛んでくる、という感じではないでしょうか。このスレッドのためにアクセスする奇特な人はいないでしょう。

もし少しの目的を持っているとすれば、ボクがコテハンであることはあるかもしれません。無差別連射する人々もそれを継続することには精神的な負荷があるでしょう。名無しで、無意味なレスするという「主体の散乱」に耐えることは難しい。どこかで「オレはここにいる」という主体を担保しなければ、耐えられないでしょう。そのためにコテハンという同一性へ継続してアクセスすることで、自らの同一性も担保する。

荒らしとは荒らすべき対象があって成立するものです。もはや無意味なレスをすることだけでは荒らしとはいえない。いかに荒らしをするか、ということも困難になっている。連射の物量は社会的な対象へ影響を与えるまでのボリュームをもつまでになっています。しかし物量は反射的で瞬間的なネットイナゴであって継続した意志として現れにくい。一時的なバッシング(炎上)へ向かう。それがマシンガン連射時代ということでしょう。そしてまた新しい「統治」が必要とされるのでしょう。
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