なぜ生政治は怪物を生むのか

pikarrr2008-12-08


マクロ秩序と「環境」


経済学に対する批判の一つに人を功利的な主体へと還元するというものがある。実際に調べても人の行動は経済学的ではない。しかし経済学の有用性はそれでも経済学はある有用な知見をもたらすことにある。それは「マクロ秩序」である。

たとえば交通事故発生件数推移をみるとある傾向が見える。これは不思議なことである。毎年同じ人が事故を起こすわけではない。それぞれの人はそれぞれの事情、状況で運転をしているのだから、毎年ごとに多かったり、少なかったりバラバラであっても良いのではないか。しかし年間というマクロで見るとある傾向が見えてくる。これが「マクロ秩序」である。

なぜこのようなことが起こるのか。それは交通事故が「環境」に大きく影響しているからでしょう。それぞれの人はそれぞれかってに行為していても、自動車社会、交通システム、法整備などの環境は急激に変化はしない。ここでは人は環境の一部であり、環境というマクロな状況がこのような全体として現れてくる。



http://www.mlit.go.jp/jidosha/anzen/subcontents/statistics.html




生政治と環境適応訓練


だからこのようなマクロ秩序をもとに様々な環境改善が進められるマクロな傾向があるということは傾向に影響を与える要因群があるということである。さらに詳細のデータを統計的に解析することで重要な要因群が見えてくる。そしてそれにそってマクロな対策が進められる。

これはまさにフーコーの生政治の事例と言うことができるだろう。フーコーは生政治では法権力、規律訓練権力、生権力が相互作用的に進められるといった。

交通事故抑止の生政治  


生権力・・・統計データにもとづく、社会設計、人間工学的な交通システム改善
法権力・・・自動車に関する法規制の改善
規律訓練権力・・・取り締まり、運転者教育、交通マナー講習など

しかし生政治は交通事故の抑止としてのみあるわけではない。社会上の生政治全体が関連し合い環境を管理し、社会秩序を維持している。たとえば規律訓練権力は交通マナーに関してだけではなく、学校教育という装置全般において、マナーを守るように訓練される。

教育とは本質的にマクロな環境への適応性を高めるように訓練することである。生政治は人をマクロな環境に適応する個体へと還元する。経済学において「功利的な主体」と呼ばれるのは、資本主義社会という環境へ適応する個体性であるからだろう。このようなミクロな訓練がマクロな環境管理を支えている。




マクロ秩序と個人趣向の断絶


マクロ秩序の発見は近代以降のものである。国家によって総合的な人口統計調査が行われ、その中でマクロ秩序は発見された。たいへん不思議なことだが、このようなマクロ秩序はほんとに些細なことにまで見出すことができる。たとえば年間に犬にかまれて怪我をする人の数など、人の趣向に深く関係するところにも現れる。

しかしそれでもマクロな秩序がミクロな個々人の趣向と断絶している。個々人がミクロレベルで趣向によって好き勝手にふるまっていても、個々人は「環境」に埋め込まれているのであって、マクロな秩序として「環境」の傾向を映し出す。

マクロ秩序の発見によって政治はマクロ秩序をコントロールすることを重視することになった。社会にはマクロな環境があり、緩やかに変化している。権力が個人へ作用するとしてもそれは規律訓練という環境適応を通してである。そして人々は趣向のような言語の次元ではなく、身体の次元として埋め込まれている。

その環境へ働きかけ管理することが、国家管理の重点課題になった。それによって国家運営が大きくかわった。君主の帝王学に頼っていたものが、政治家およびその他運営のプロフェッショナルによって、定性的な運営が行われるようになった。




自律化するマクロ運動


このようにフーコーはマクロ秩序への自覚を生政治という国家権力の回りで考えたが、マクロ秩序への自覚は人々へも大きな力を与えた。大衆とは単に人々が集まっているという以上に、マクロ秩序に自覚的な集団を意味するだろう。マスメディアによって情報が即時的に伝達されることによって、大量の人々が直接的なコミュニケーションをもたずに協調することが可能になった。

わかりやすい例がブームだろう。ある商品がブームを起こすことで全体の一部という自覚がもつ。あるいは様々な民主運動としてポピュリズム。さらに株式市場もマクロな秩序をもとに作動しているが、最近の株価はまるで自律的な生き物にように、短期的に変化している。

オンラインのネットワークはよりマクロ秩序の自律性を増している。その顕著な例がネットの炎上である。それは集団の規模としては小さいこともあるが、炎上のために炎上するというアイロニーをもっている。ネットユーザーはあるきっかけによって炎上するだろうことを理解して炎上を仕掛ける。遊びでマクロ秩序を運動へと誘導する。




マクロ秩序の二面性


しかし生政治とポピュリズム的な大衆は対立するわけではない。このような自律的なマクロ運動はまさに生政治によって耕された「環境」によってはじめて可能になっている。商品交換網=市場であり、情報網が整備され、なおかつそのような環境に適応するよう還元化された個体群によって可能になっている。

生政治によって生み出された高度なマクロ秩序の二面性といえるだろう。ある時は高度な社会秩序を維持し、またある時には一瞬で炎上し怪物化する。このような怪物の面は群衆(マルチチュード)と呼ばれる。
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