なぜ数学は真実を語るのか 言語論全体試論

pikarrr2008-12-09


コンスタティブというパフォーマティブ


コンスタティブ(事実確認的)な発話とは「コンスタティブ」という一つのパフォーマティブ(行為遂行的)な発話である。すなわちいかなる発話もコンテクストと切り離せない。たとえば「犬」という言葉はコンスタティブには「動物の犬」として使われる。この使い方が一般的(コンスタティブ)であると学ぶ。コンスタティブと言われるコンテクストでの使われ方であると学ぶ。特に学校では基本としてまずコンスタティブ(事実確認的)な意味を学ぶのだ。

そしてその他のパフォーマティブな場合は、このコンスタティブな意味を担保に使われる。「おまえは警察の犬だ!」として使うときに「犬」「卑怯者」という新たな意味を獲得するとともに、そこでは「動物の犬」というコンスタティブな意味は排除されるのではなく、犬→動物→人間以下という連想的に担保される。これがレトリック(修辞)である。

たとえば「おはよう」「朝のあいさつ」という意味をもつが、「早い」という起源をもつ。では「おはよう」のコンスタティブは「早い」だろうか。そうではなくて、「おはよう」のコスタティブな次元はもはや「朝のあいさつ」である。もしかすると「おはよう」と発話された始まりにはレトリックであったかもしれない。すなわち最初はレトリックであっても反復されることでコンスタティブな価値を獲得する。




シニフィアン機械


ソシュールは言語をシニフィアン(言語表現)とシニフィエ(言語意味)に分けるとともに、それらが恣意的であるといった。「朝のあいさつ」というシニフィエは日本語では「オハヨウ」というシニフィアンであり、英語では「Goog morning」である。シニフィアンシニフィエは一つの社会性というコンテクストによって結びついているということである。

しかし「おはよう」というシニフィアンの使用において「朝のあいさつ」という意味が重要だろうか。もはや朝というコンテクストにおいて使用されているだけ、すなわち儀礼化しているのではないだろうか。なにかの意味を伝えるというよりもただそうしているだけである。そのとき「おはよう」シニフィエ(言語意味)からシニフィアン(記号表現)として自律している。

シニフィアンの自律性は、人々の間で反復して使われることで儀礼化あるいは習慣化するところに現れるといえるが、またいかなる発話においても人は言語意味を明確に理解して使うだろうか。そうではなくて発話はその場面にあわせて吐き出されるのだ。それはシニフィアン機械」と呼べるだろう。いいたいことが明確であるのではなく、ある思いのもとに言葉が吐き出される。それは無限に言葉を扱うというよりも訓練された発話が吐きだされる。

ここではラカンの言語論に限りなく近づいている。精神分析が夢、機知、いい間違い、子供の発話などを分析するのは、それらの状態がシニフィアン機械」に近い状態にあるからだ。たとえばなんども例をだす岩崎恭子「いままで生きてきたなかで一番幸せです。」という発話はまさに子供ならではのシニフィアン機械」である。彼女はその言葉と用法をどこかで聞いたことで学習したのだろう。精神分析的にいえば無意識に記憶されていた。それがあの歓喜の中で吐きだされた。




言語は伝承される


人は言語の使い方をかならず対面で伝承される。言語は決してテキストのみではなく学べない。先に言ったようにコンスタティブであっても、コンスタティブという一つのコンテクストであるからだ。コンテクストから切り離されて言語を学ぶことはできない。学校で学ぶということでさえも一つのコンテクスト、言語の一つの用法を意味し、学ぶのだ。学校がいい加減なことを教えるはずがないというコンテクストがある。

言語は言語化されない行為とともに学ぶのである。だからデリダに反して重要であるのはエクリチュールではなく、パロールである。エクリチュールはこの「いきいきした現前」という経験論の次元を切断する。デリダエクリチュールを言語の存在論的起源にすることこそ形而上学である。それを差延と呼ぼうとかわりない。言語の一回性は形而上学的に存在論にさかのぼらなくても、経験論的に体験の一回性そのものとしてあらわれる。だから人は発話するたびにその前とは異なりまた少し上達するのである。




シニフィアンは経験論的、シニフィエは超越論的


人は道具としてのシニフィアンの使い方を伝承的に学び訓練する。それは飛んできたボールを打つことが上達するようにである。そしてシニフィエ(意味)は打ったあとにしかわからない。空振りなのか、ヒットなのか。

「犬」という発話が「動物の犬」として使われたとどのようにすればわかるのだろうか。そのコンテクストがコンスタティブであると、どのように確認されるのだろうか。人はシニフィアンを訓練に従い使い、そして相手はそれによって訓練に従い返答する。

たとえばペットの犬を訓練して、「お手」というと犬は手を出す。ここで犬は「お手」という言語の意味を理解しているといえるだろうか。ただ「オテ」というシニフィアンに対して手を出しているだけではないだろうか。シニフィアン機械」という人はまさにこのような状態に近いだろう。状況に従い訓練されたように行為する。

しかし当然人の言語コミュニケーションは犬の「お手」とは違う。人は意味を理解することができる。ただ言語使用は人が考える以上に確実な意味の理解が重要でないし、確実な意味は知りえないのだ。それでも問題なくコミュニケーションが可能であるのは、使用法の反復した訓練のたまものである。

逆に言語意味の過剰な獲得はまさに精神分析の領域である。たとえば片思いの女の子が突然、「バカ!」と笑い走っていった。この意味はなんだろうか。「オレのことが好き?好きでない?」とパニックになるだろう。神経症はなにげない日常でこのようなパニックに陥ることだ。些細なことに過剰に意味を読み込もうとして、循環論に陥ってしまう。

ラカンに従いラディカルにいえば、意味(シニフィエ)は延滞され続け、決してわからないのだ。シニフィアン(の自律性)が経験論的であれば、シニフィエ(の過剰)は超越論的なのである。




数学の確実性


数学の確実性とはなにか。数学大系は決して論理的であることから確実性=真実であるわけではない。歴史上に算術は東洋にもあったがだから社会を席巻したわけではない。

数学も言語であり一つのコンテクストの上に成立していることには代わりがない。いわば「限りなくコンスタティブ」というコンテクストにある。「限りなくコンスタティブ」でありえる理由の一つが、数字という意味(シニフィエ)に依存しにくいシニフィアンによる規則の体系として成立していることによる。

たとえば「1」というシニフィアンは様々なシニフィエを持ち得る。「1つ」であったり、「一番というかっこよさ」であったり、しかし「12×12」のような数学の使用方法においては、多用なシニフィエから切り離され、規則の一部として働く。

これは、他の言い方をすれば、量的と質的の差ということができる。たとえば「犬」という意味はコンスタティブであっても「動物の犬」という質的である。数字という使用は量的であるのに対して、通常の言語意味は質的と切り離せない。

そして重要であるのはこのような特性によって、数学大系という規則は簡単に、誤配少なく、高速に伝達することが可能になる、ということだ。一度、乗法という量的な規則を習得すれば、誰もが「12×12=144」という解をえるだろう。それは「反復可能性」として科学技術の進歩を支えている。数学の成功は近代資本主義社会の成功の原動力である。だからなおさら世界の共通言語として共有されている。これが「限りなくコンスタティブ」ということである。数学の確実性は近代というコンテクストと切り離せないだろう。
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