なぜ「コード・ブルー ドクターヘリ緊急救命」はおもしろいのか

pikarrr2009-01-13

「コードブルー ドクターヘリ緊急救命」

コード・ブルー>視聴率23.1%で本放送時を上回る フジ医療ドラマが好調


フジテレビ系で10日に放送したスペシャルドラマコード・ブルー ドクターヘリ緊急救命 新春スペシャル」(午後9時〜)が平均視聴率23.1%と連続ドラマ放送時(08年7月期)を上回る高視聴率を記録したことが分かった。12日にスタートしたフジテレビ系連続ドラマ「ヴォイス 命なき者の声」(午後9時〜)は初回17.7%(ともにビデオリサーチ調べ、関東地区)で年明けからフジテレビ系の医療ドラマが好調だ。

コード・ブルー〜」は08年7月に連続ドラマがスタート。NEWSの山下智久さんや女優の新垣結衣さんらが出演し、緊急救命のためドクターヘリに乗り込む若きフライトドクターたちの活躍と葛藤(かっとう)を描く。「新春スペシャル」は2時間10分の土曜プレミアム枠で放送。連続ドラマの最終回から1週間後の設定で、大規模列車事故での救命がテーマだった。番組内の最高視聴率は、ラストの午後11時2分で26.5%だった。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090113-00000001-maiall-ent

「コードブルー ドクターヘリ緊急救命」http://wwwz.fujitv.co.jp/codeblue/index.html)の新春スペシャルを見る。コード・ブルーは昨年の夏クールで放送された医療ドラマである。ボクとしてはいままで見てきたドラマの中でも5本の指にはいるほど楽しめたドラマだった。




北野映画の残酷さ


以前にも書いたがドラマの面白さはリアリティに関係する。リアリティとはボクたちが考える常識と非常識の境界、常識のちょっと先にある。ドラマの内容が常識的あれば、予測可能でありドラマにならない。ドラマは本質的に非日常を描くのであるが、その非日常があまりにボクたちの常識とかけ離れていては視聴者はついていけない。日常に足場を持ちながらちょっとした非日常、ありそうでない非日常に、思い入れと緊張というリアリティが生まれる。

北野武が自らの映画について「人が死んで残酷だ」と言われたときに、「ハリウッド映画では銃の乱射などでもっと多くの人が殺されるだろう。」と言い返したという有名な話がある。ハリウッドのエンターテインメント映画において描かれる死はあまりに非常識的であるが故にリアリティをもたない。ハリウッドのエンターテインメント映画のリアリティは、CGやセットなどの視覚的「破れ」で担保される面が大きい。それに対して北野映画では死は日常のほんの隣におかれる。

80年代の漫才ブームが起こした革命は、人々の日常と離れて、儀礼的、形式化するテレビの中のリアリティを破壊したことにある。お笑いの定番としてのパロディ劇の場があり、そこから暴露大会のような素に突入することで、テレビ的な儀礼を破った。そこに人々はリアリティを感じた。素に近接してこそほんとに面白い。素に近接してある死。それが北野映画のリアリティであり、残酷さである。




純愛ドラマの遷移


これはドラマに限らず、物語の基本だろう。たとえばマンガではコスト的にもいくらでも空想的な物語を書くことができる。しかしそれ故にリアリティを維持することがむずかしい。そのためによくあるのは、主人公が高校生であり続けるということだ。異次元にいこうが、戦争地帯にいこうが、主人公は高校生であり、事件が終わればクラスメートのもとに帰ってくる。この日常を支える場所が家庭(家族)ではなく学校(友達、恋人)であるのは、現代において象徴的あるかもしれない。

少し前に韓国ドラマが流行った。それではかつて日本にもあった「純愛」が描かれており、おばさんたちは古き良き時代を思い出して熱狂したと言われる。しかしこの韓国ドラマのリアリティを支えるのは「純愛」はただ男女が純粋であるのではない。

韓国ドラマで重要であるのは、家族である。韓国は儒教思想がいまも色濃く、親の権威が強い。韓国ドラマの純愛は、親たちも含めた封建的な社会環境を背景にして成立している。そのような環境にこそおばさまたちはリアリティを感じたのだろう。

日本のテレビドラマは80年代以降、恋愛ドラマが主流となった。トレンディドラマと呼ばれて、そこには社会環境は希薄で、恋人達というプレイヤーのみが三角関係や不倫で悩み、そこで恋愛は純化される。すなわちそれがその時代の常識のちょっと先=リアリティだったのだろう。しかし恋愛のシチュエーションはエスカレートしてアブノーマルなどに様々なリアリティの開拓へ向かたとき、常識と非常識の薄膜は様々に語られすぎてもはや使い古したものになった。

最近、またケータイ小説として、「純愛」が回帰している。その純愛はいじめ、自殺、妊娠、レイプなど過激な環境から生まれている。これが現代の常識と非常識の薄膜(=リアリティ)なのだろう。




プロフェッショナルへの過剰な信頼


テレビドラマで恋愛ドラマのあとに主流になったのが職業ドラマである。これはボクたちの常識の根底にある「共通なもの」が家庭でも、恋愛でもなく、職業倫理に向かっていることをしめす。価値が多様化する中で常識をどこに見出すのか。その一つがプロフェッショナルである、ということだ。「僕の意見はこうだ、キミの意見はそうなのか。ではプロに判断してもらおう。」近々始まる裁判員制度に対して、「なぜ普通の人々が判断するのか。よくわかっているプロに任せればよいではないか」というのは一般的な発言である。

最近の様々な「モンスター」の問題は、人々の常識の領域が脆弱にあり、要望、問題が学校先生や医者などのプロフェッショナルへ直結しすぎることによる。たとえば政治の領域でもそれが表れている。社会の卑近な様々な問題が国会議員へ殺到する、さらには総理大臣へ直結してしまう。そして本来、内閣があつかうべき、大きな問題が延滞される。

人々が思うほどにプロも解答をもちえているわけではない。医者不足とは医者の絶対数の不足ではなく、きつい小児科や地方勤務を避けていることによる。あるいは裁判員制度はいまの裁判官の判断があまりに検事よりの慣例主義に傾きすぎていることによる。

だから常識の脆弱化は自己責任か、あるいは「モンスター」という進展のない圧力関係にしかならない。しかしどちらにしろ、職業ドラマの流行は、いまも人々が「プロフェッショナルの倫理」に大いに期待していることを表している。医療ドラマでの様々な問題の中で苦悩する正義感溢れる倫理的な医者の振るまいは人々を熱くして、安心させる。




ドクターヘリは非日常へワープする


コード・ブルーは職業ドラマの流れにある。職業ドラマの中でも、医療ものは学校もの、警察ものについで人気がある分野だろう。いまでも誰もが学校で人間形成を行うことで常識の源泉であり続けているとすれば、医療はたえず死と近接していることで、常識の境界を生み出しつづけている。

そのために様々な医療ドラマは作られ続けているが、コード・ブルーのコンセプトの新しさは、病院でさえも日常に変えることである。いままでの医療ドラマならば、常識=日常生活であり、非常識=病院という構図で病院内が緊張をもって描かれた。しかしコード・ブルーの非日常はヘリで向かった先の緊急現場にある。緊急に病院に運び込まれた患者はすでに応急処置された患者であるのに対して、ヘリで向かった先はまさに「生の被害者」がいる。ドラマでは工場の機械に腕が巻き込まれた人、爆発事故で鉄筋に串刺しにされた人などが描かれた。

ドクターヘリは病院という日常から、そのような「生の現場」へ数分でワープする。そしてそこに運べるのは2、3人の医師と応急の器具のみである。そして応急措置であるが故にわずかな時間での判断と決断が求められる。誰を見捨て、誰を助けるのか。病院まで運んでは助からないから危険大きい治療に踏み切る。さらにその試練に立ち向かうのが、まだ治療経験が不足な見習いのフェローたちである。

このドラマではほとんど病院内とヘリで向かった事件先しか描かれない。病院を離れた日常生活は描かれない。なぜなら病院内が日常であるからだ。小さい頃に両親をなく、育ててくれたおばあちゃんが認知症で入院してくる。過保護の母親が病院へ見学に来る。半身不随になり分かれた元彼が通院してくるなど、病院内で日常ドラマが繰り広げられる。そこから非日常のヘリの先との対比でリアリティが醸し出され、その先に共感と感動が生まれる。




彼女たちがハードな仕事をこなすサディスティックな魅力


また面白いのが主要なフェローたち5人の構成である。このようなドラマはとかく男子の成長ドラマになりやすい。古い根性ドラマを背負う男子、藤川(浅利陽介)はもっとも出来が悪く、お調子者である。もう一人の男子、藍沢(山下智久)と女子、緋山(戸田恵梨香)は野心的、 白石(新垣結衣)は優等生で、ナース冴島(比嘉愛未)は自立心が強いキャラ。女性の社会進出といっては古いが、ベタで汗くさい男子根性物語ではない、新たな男女像が描かれていることでリアリティを生み出しているのかもしれない。

今回、新たに登場した心臓外科のフェローをモデルの今井りかが演じたのはどうだろう。その素人演技だけではなく、さすがにここまで美人が揃うとリアリティを保たない。主要な女性キャストがみなかわいく、華奢であり、その彼女たちが懸命にハードな仕事をこなす姿を見ることはサディスティックな快感を生むだろうことも大きな魅力だろう。この当たりは隠れたフェティシズムな狙いだろうか。

実際のところ、面白さ、楽しさを語りつくすことなどできない。おもしろいものはおもしろいとしかいえない。同様なコンセプトでドラマがつくられたからといって面白いとは限らないわけで、とにかくおもしろかった。あとミスチルの主題歌は秀逸。
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