なぜ「みんなロックで子供でいられる」のか

pikarrr2009-01-14

「みんなロックで大人になった」


NHK-BSの世界のドキュメンタリーで「みんなロックで大人になった」を見た。7回完結でロックの変遷をたどる。

「みんなロックで大人になった」  http://www.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/090105.html


第1回 ロックの誕生 第2回 アート・ロック 第3回 パンク・ロック 第4回 ヘビーメタル 第5回 スタジアム・ロック 第6回 オルタナティブ・ロック 第7回 インディー・ロック

いろいろなポップミュージックを聴くが、どうしてもヘビーメタルは好きになれない。音がうるさい、暴力的ということではなく、なにか「ダサく」て生理的に苦手という感じであったが、本番組のヘビーメタルの回で、ヘビーメタルは癒しのヒーリングミュージックである」という言葉を聞いて、好きになれない理由がなんとかくわかった気がした。

ロックミュージックは、そのはじめにはブルースなどの黒人音楽があるわけだが、商業的にはプレスリーが有名なように50年代にアメリカン・ポップスの一ジャンルとして誕生した。しかし文化としてのロックミュージックが生まれたのは、ビートルズを代表とする60年代イギリスの若者たちのバンドブームである。

大人たちの商業的な音楽ではなく、社会的に抑圧された若者たちが自ら楽器を演奏し、シャウトするという自己表現方法となった。そしてこの方法論は瞬く間に世界中の若者に広まった。このためにロックは大人達の社会的な儀礼を越えて自らの「本音を語る」というオブジェクトレベルを目指すことが重要とされた。




なぜ浜崎あゆみはロックの正統な後継者なのか


オブジェクトレベルを目指すことの問題は、バンド単体であり、音楽形態であり、同じことを繰り返すことで、メタレベルに回収されてしまう。すなわち「ロックとは自らの「本音を語る」である」ということがスタイル化することで、ロックを「演じて」しまう。だからロックはたえず自己解体と構築によって新陳代謝を繰り返すことが求められる。それができなければ飽きられてします。

たとえば60年代を通して様々に成長したロックは、商業的にも、演奏技術でも、レコーディング技術でも成功したが、その分、成熟してしまった。すなわちメタレベルに回収されてしまう。

70年代のパンクロックの登場はその反動であった。パンクでは演奏がうまくてはいけない。自らの「本音を語る」ということが先行し、演奏そのものは重要ではない。すなわちパンクロックこそが「やらせ」(メタレベル)なしの「ガチ」(オブジェクトレベル)であるということだ。しかししばらくするとパンクもまた「パンクとはこのようなものだ」というメタレベルに回収されて、陳腐化してしまう。ロックの歴史とはこのような構築と解体の歴史である。

たとえば浜崎あゆみは若者たちの代弁者として消失感を歌うことで共感をえた。そして成功することでメタレベルに回収され、スタイル化され、陳腐化している。この意味で浜崎あゆみでさえもロックミュージックの正統な後継者なのである。




ヘビーメタルの健全さ


ヘビーメタルは、パンクと同じように暴力的で大音量な音楽であるにもかかわらず、パンクとは真逆の位置にある。ヘビーメタルは技巧化、重厚化が求められ、そして一歩間違えばコミカルでさえある「悪魔の〜」のような演劇的なタイトルや化粧・、スチュームなど。すなわちヘビーメタルは、自らの「本音を語る」というオブジェクトレベルに向かうことを目指すのではなく、その始めからメタレベルに立っているのだ。

様々なロックミュージックのスタイルが流行っては廃っていったが、唯一ヘビーメタルのみが継続されてきたのは、はじめからメタレベルに立っているために、メタレベルへと陳腐化することがないのだ。そのはじめにメタレベルにあり、ひたすら熟練的、成熟を目指すのとともに、ネタ的、演劇的であることが楽しまれる。

なぜヘビーメタルは、オブジェクトレベルへ回帰を目指さなくても許されるのか。メッセージ性どうこうことを吹き飛ばす、あのギターの歪んだ大音量。それらの音に浸るだけで、好きな人には満足なのだろう。

それはクラシックに似ているかも知れない。クラッシックが音楽の形態として一つの完成系として受け入れられている面があれとすれば、同様にヘビーメタルは60年代の試行錯誤の末にたどり着いたロックミュージックの一つの完成系なのだろう。

だからパンクが破壊的であるのに対して、ヘビーメタルは音のイメージとは逆に構築的で健全な音楽である。番組で語られたヘビーメタルは癒しのヒーリングミュージックである」と言う言葉は、まさにこのような意味である。そしてボクにとってはこの健全さこそが「ダサく」て生理的に苦手なのである。




ヘビーメタルという「職人」


このようなメタレベルを解体し、オブジェクトレベルへの向かおうとするロックの原初的な傾向は、ロックのみがもつ特別なものだろうか。このような傾向は現代の「芸術」一般がもつ傾向ではないだろうか。たとえば小説では、ミステリー、SFなどの娯楽小説にくらべて、純文学が高尚であるように言われるのは、このヘビーメタルとロックの原初性との差に近い。

純文学は人間がもつある種のオブジェクトレベル、生(なま)の感覚、世界の「真実」を浮き彫りにすることを目指す。表現者は社会的な儀礼を解体し、その奥底にある「真実」を目指す。それは一歩間違えば、自らの解体を招くとても危険な探求的行為である。それ故に純文学は高尚なのである。

そして現代では、「芸術的」という言葉にすでにこのようなオブジェクトレベルを目指す探求行為が名指しされる。それは創造的、非日常的、純粋という意味をもつ。このようにロックの原初性が「芸術的」であるとすれば、ヘビーメタル「職人的」である。演奏の技を磨くことで人々に快楽を提供しつづける。社会の中の役割(職人)というメタレベルに居座り、日常において技を洗練し、社会の生産性に貢献する。




芸術的/大量生産的


このような芸術的/職人的という分類は近代的以前にはなかったたとえばルネサンスの時代においても創作する人々はすべて職人であった。近代化の中で創作行為は芸術的と職人的に分離されたのだ。

このような分離を考える場合に重要なのは、芸術的/職人的の分離ではなく、芸術/大量生産の分離である。近代の特徴である経済的な合理性の推進は、創作行為の多くを分業体制と機械化によって大量生産へと変容させた。そして「芸術的」というオブジェクトレベルを目指すという危険な探求的行為の純化は、その反動として生まれてきた。

日常に安価な大量生産品が溢れる中で、逆に創造的な芸術品はとても貴重で、高尚なものとして表れる。そして芸術は大量生産化というメタレベルへ落ち込まないように、自己構築と解体を繰り返すことでオブジェクトレベルを目指すことが求められる。

形而上学的にいえば、大量生産品とはただの物体であるのに対して、創造的な芸術はどこにもない唯一のもの、精神である。大量生産=日常=労働=身体に対して、芸術=非日常=創造=精神であり、経済的な合理性によって無個性化する社会の中で、芸術は創造することだけでなく、触れることで自らの存在を確認する現代の避難場所として大きなニーズを持っているのだ。




「みんなロックで子供でいられる」


「大人になる」とは、社会の慣習的な秩序に埋め込まれ社会に貢献すること=社会的な「去勢」である。これは、いわば「職人的」なものといえるだろう。しかし経済的な合理性が進んだ現代では、もはや「去勢」するような社会的な慣習秩序は希薄になっている。

人は社会的な秩序の一部に埋め込まれるというよりも、大量生産装置の一部として身体を配置する。そして取り残された精神は去勢されることなく、自らの存在を求めてさまよう。ロックミュージックの成功はまさにこのようなさまよう精神の避難場所を提供する。そしてその役割はオブジェクトレベルを目指す構築と解体の終わりない運動によって可能になる。もはやみんな大人になれない。そしてロックは子供でいるためにある。
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