なぜグローバリズムは経済的コンベンションなのか 下部構造としてのコンベンション

pikarrr2009-01-09


「万人に対する闘争」と慣習(コンベンション)


慣習(コンベンション)とはなにか。「コンベンション」は近代化の中で社会秩序はいかに可能であるかという議論からきています。ホッブズリヴァイアサン(ISBN:4003400410)の中で自然状態では「万人の万人に対する闘争」が起こるので一人の主権者へ統治を委ねる。それが社会契約としての国家理性であると言いました。ここから様々な思想家が議論を展開しその後の思想へと繋がってきます。

その中で、ヒュームはまずあるのは「万人に対する闘争」ではなく、人々がいればそこにすでに慣習的な秩序(コンベンション)があると言いました。コンベンションは、慣習、黙契など様々に訳されますが、主権者の法による統治以前にある自生的、暗黙の社会秩序です。ヒュームは新たに施行される政策や法よりも、統治においてはコンベンションを重視すべきであると保守思想を主張しました。




構造主義と慣習と神話


だから未開社会の社会秩序もまた広義のコンベンションです。未開社会は法の前に秩序があることを証明しています。人類学者のモースは未開社会の秩序を贈与という交換関係で説明しました。そしてレヴィ=ストロースはそれを構造主義へと展開しました。

しかし一般的に言われる慣習と構造主義を同一視するのは違和感があるのは確かです。慣習は一般的に通時的な経験によって習得する、すなわち習慣化です。それに対して、構造主義は社会秩序がすでに共時的に存在すると説明します。

ソシュールは言語においてパロールという通事性を排除したラングという共時的な体系を取り出します。これはあくまで言語研究のための方法論です。この方法論から構造主義共時性はきています。構造主義が現象というよりも方法論であると言われるのはこのためです。実際の言語習得はパロールという通時的な習慣の獲得と考えるべきでしょう。

構造主義的な分析によって明らかになったのは、秩序を法則性によってのみ成り立っているということです。たとえばなぜインセントタブーが存在するのか、という問いには、近親相姦は奇形を生みやすいなど迷信がうまれます。しかしあるのはただ社会の下部に数学的な法則性があり、たまたまインセントタブーが起こると説明します。そしてそこに意味を求めるとき、迷信(神話)が生まれます。すなわちシニフィエに対するシニフィアンの優位です。

シニフィエに対するシニフィアンの優位は、慣習全般の構造を明らかにします。慣習における掟(タブー)はなぜそうであるか、ということではなく、ただそのようになっているだけで、そこで説明される意味は事後的に生まれているということです。だから意味はいつも神話的です。




物象化と構造主義


構造主義と慣習を比較する場合に重要であるが、構造はどこにあるのか、とうことです。レヴィ=ストロースは言語獲得による内面(無意識)に構造を求めました。人々が同じ言語を獲得し、無意識のふるまいことによって、全体としてコンベンショナルな秩序が表れるということです。

しかし構造を内面(無意識)にのみ求めるのは無理があるのではないでしょうか。このような構造主義の認識論的な説明に対して、一般的な慣習では「郷には入れば郷に従う」というように、構造は人の内面とともに外部にもあります。社会環境という記述、振るまい、建築物、道具などの物質として表れ、人々はその環境の中でふるまうことでコンベンションに誘導されるのです。構造主義が内面の言語的な無意識に秩序の源泉を求めるとすれば、ここにあるのは外部社会環境と身体の反復した関係=習慣化による身体知です。

これはマルクスの物象化論に近いでしょう。物象化は疎外論の延長にあり、人々の社会的な関係が商品などの物に代替されると考えます。物象化ではコンベンションは外部の物の環境に誘導されるという外在的な面が強調されます。たとえば物象化論には物神性という内面的な現象あり、内面的、神話的ですが、そこでも主体はあくまで商品のような外在物です。




保守思想のコンベンション


先のヒュームの保守思想のコンベンションは、構造主義、物象化のみで説明することは難しいでしょう。このような保守思想のコンベンションは単に自生的、暗黙の社会秩序=広義のコンベンションではなく、近代に成立した国家に根ざした、言わば「政治的なコンベンション」です。

近代において、封建的な地域社会が国家として統一されていきました。フーコーはそこで行われたのが生政治であり、規律訓練権力が重要であったと示しました。多様な地域文化ともつ民族が、主権者の法、制度のもとに、統一的な言語、習慣へと規律訓練されます。

このような国家統一で重要であるのは、それは一国の現象ではなく、欧州を中心とした国家群による富国強兵の競争であったということです。他国に負けないように、統一的な言語、習慣によって労働の生産性が向上し、国力が増強される。

ヒュームの保守思想的なコンベンションは、このような近代の国家形成の中で生まれたものであり、規律訓練権力が構造主義や物象化のような原理をもって内面、外部環境を誘導するように働きました。それは国家国民への自覚(ナショナリズム)と、国家環境の習慣化(公共整備など)を生み出すことが目指されたのです。




「社会的コンベンション」「政治的コンベンション」


このようにコンベンションは内在的か、外在的か、あるいは自生的か、意図的か、というような軸を考えられるでしょう。これらは規模の違いとの関係が大きいのではないでしょうか。

構造主義のように内面化する傾向が強いコンベンションは、大きな組織では維持されにくいでしょう。未開社会や共同体、あるいは現代ならば趣味を同じくするオタクなどのように比較的小さく、親密なコミュニティにおいて働く、「社会的なコンベンション」といえます。その特徴は同様の神話(意味)を共有します。

保守主義的な国家統治のような大きな組織に秩序を生み出すには、「社会的なコンベンション」のみでは弱く、主権者の意図を持った制度、法によって統一する「政治的なコンベンション」が必要です。ここではフーコーが生政治としめしたように、学校などのように社会環境としての意図を外在化し、内面とともに身体へ習慣化するように規律訓練します。




外在化されたコンベンションと疎外


国家よりもさらに広い、グローバルに秩序をもたらすには、外在化はさらに進むでしょう。その例が市場です。たとえば建築資材を運び、街を組み立てれば、そこに住む人々はその環境に従って貨幣と商品の交換という行為を行うだけで、市場全体秩序は保たれます。

コンベンションが外在化されることで、距離に関係なく、世界中どこへでも伝達されます。ただ内面化への働きは薄れ、高度な思想へ人々を誘導することは困難でしょう。市場がグローバルに展開しえているのは、その思想が高度な言語思想ではなく、外在化しやすい貨幣という数量化を基本としていると言えます。この意味で「経済的コンベンション」と言えます。

そのかわり、コンベンションの外在化は、人間の内面的(社会的)な関係が外在化に置き換わるというマルクスがいう「疎外」が生まれます。






下部構造としてのコンベンション


たとえばネットがグローバルな秩序を持ち得ているのは、統一したプログラム言語を持っているからですが、容易にグローバルに統一しえるのは、言語がアルゴリズムであるからです。アルゴリズムとは特定の目的を達成するための処理手順であり、客観化された慣習です。これは、貨幣などの数字に同様に高い客観性を持つことで、広範囲に客観的な伝達を容易にします。

すなわち外在化を可能にするのは、数量化、およびアルゴリズム化のような客観性です。これらはアーキテクチャと呼ばれるでしょう。先に建築物の例で伝達されるのは材料そのものではなく、数量化された建築規格(図面)です。

ここで先に挙げたようにコンベンションの本質が法則性にあることが明らかになります。構造主義は内面化でさえも法則性であることを示したことが画期的であったのです。

このように下部構造としてのコンベンションをもとに規模と外在性の関係を考えると、資本主義社会の歴史的な必然性が見えてくるかもしれません。歴史的に人口が増加し、社会の規模が大きくなることで、秩序をもたらす方法は、必然的に求心力は弱く、かつ外在化せざるをえません。数量化であり、アルゴリズム化です。これがウェーバーがいう近代化の特徴のひとつである「合理化」です。




貨幣コンベンションと宗教コンベンション


コンベンションの例としてよくあげられるのは、地域的な慣習や言語、そして貨幣ですが、これらも外在化のしやすさとその影響範囲に関係があると思われます。外在化しにくい慣習は地域的に限定されやすく、外在化しやすい貨幣はグローバルに発展する柄谷、さらには柄谷を展開した岩井の貨幣の原理(貨幣論 ISBN:4480856366)は構造主義的ですが、そこに欠けているのは外材性です。貨幣のコンベンションにおいて人々は経済環境の中でただ貨幣交換を行っているだけなのです。

ただ貨幣という「経済的コンベンション」には、政治的=社会的コンベンションが相補的に働いています。国家という政治的コンベンションによる環境整備があり、趣味コミュニティなどの社会コンベンションによる欲望があって、グローバルな「経済的コンベンション」は維持されています。

一般的に宗教は内面に働きかける「社会コンベンション」だと思われていますが、必ずしもそうだとはいえません。宗教はお経や儀式、仏像、礼拝施設など、思いの外、「規格化」によって外在化されています。信仰とは、宗教の教義の理解以上に、習慣化によって宗教コンベンションによって埋め込まれていることを意味します。宗教は内在から外在までの各段階的なコンベンションが駆使されているのです




なぜ市場や国家は解体(ディスコンストラクション)されないのか


コンベンションを内面化としてのみとらえることの問題は、「洗脳」のようなものであり、安易に脱構築ディスコンストラクション)できると考えることです。たとえば「この世界に確かなものはない」というような相対主義的な言説はこのような例の一つです。

貨幣を構造主義的にとらえる場合、あるいはリバタリアンの国家不要についての言説や、あるいはマルクスでさえ資本主義は物神性というドグマに支えられており、近いうちに解体すると考えていた面があります。

資本主義経済は国家の内面以上に外在化した社会環境=アーキテクチャとしてあります。それが建設してきた莫大な費用と労力と多くの人々の生活を支えているという事実を考えれば、簡単に解体されるようなものではありませんし、物理的に人の世代を越えた寿命を持ちます。

たとえばロシア革命によって誕生した共産主義国家が、外在的にどれほど共産主義的ありえたのでしょうか。

またアメリ同時多発テロにおいて、グローバル経済の象徴であった世界貿易センタービルツインタワーの解体が実質的な被害規模以上にとても強烈なインパクトを与えたのは、現代の経済が外在性によって支えられているためでしょう。自由の女神以上に世界貿易センターこそがイデオロギーなのです。
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