なぜ「みんなロックで子供でいられる」のか 追記

pikarrr2009-01-15

ロックという現代病


先のエントリー「なぜ「みんなロックで子供でいられる」のか」http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20090114#p1に思いの外、反響をいただいたので、少し追記をします。

音楽のすばらしさを言葉で語ろうとすることは、水をザルですくうごとく、です。これは脳科学にてらしてもまったくの別系統のものです。それでも人はザルで水をすくうことをやめられないわけです。その場合にはまず何らかの構図が必要になります。今回はロックの原初性=芸術的、ヘビーメタル=職人的という構図で語っています。

これは必ずしもロックの原初性が良くて、ヘビーメタルが悪いと言っているわけではありません。むしろ逆です。ロックの原初性という「芸術」は人の精神の探求であり崇高である、というようなことは、大量生産大量消費時代が生み出した幻想でしかないということです。

この究極にあるのが、ロックの殉教者幻想でしょう。古くはジミヘン、ジム・モリスンなどロックスターの若くしての死は探求の果ての崇高な殉教のように語れてきました。今回の番組のオルタナティブ・ロック」の回でも、カートコバーンの死を中心にして美しく描かれていました。

たとえばロックよりもさらに芸術性を追求することを背負った現代音楽、美術などは芸術至上主義の果てにもはやなにがないやらわからず方向性を見失っているように見えます。このような原初性を過剰に求めることは精神分析的にはいえば、現代人の(神経)症の一種ともいえるでしょう。




職人(プロフェッショナリズム)倫理


それより「職人的」の方が健全です。そしてこのような芸術至上主義の現代だからこそ、職人(プロフェッショナリズム)という基盤は今後も社会を支える社会倫理になると思います。

ウェーバーは天職(プロフェッショナリズム)の元を近代化のプロテスタンティズムに求めましたが、職人倫理は日本においても古くからあります。技術を磨くということは「人間とは道具を使う動物である」というぐらいに原初的なものではないでしょうか。たとえば人類太古の芸術作品と言われるアルタミラの洞窟壁画は単なる原始人の落書きではなく、洞窟内を照らす炎で壁か煤でよごれないよう、あるいは天井にもきれいに描く方法などの成熟した技術をもって描かれています。

このような倫理は今回のエントリーの感想というよりもこのブログの文脈の中で語ってきたものです。たとえば以下を参照。

「プロフェッショナル」はなぜカッコいいのか? 映画「交渉人 真下正義」 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050530#p1
なぜ人間の尊厳の根源は仕事にあるのか プロフェッショナル(職業)=ナショナリズム  http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20080702#p1

と、言葉ではいってもやはりジミヘンはかっこいいし、ヘビメタは生理的にちょっと・・・
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