なぜケータイを使いこなすことはサイボーグ化なのか

pikarrr2009-01-17

最新ケータイに買い換えた


ケータイを5年ぶりに買い換えた。ケータイで使うのは、電話、メール、ネットがほとんどなので新機種にかえる必要をまったく感じていなかったが、さすがに5年もたつと動作に不具合がでてきたので買い換えることにした。

せっかくなので最新機種に買い換えてみると、5年間の技術進歩に感心する。まず薄くて軽い。そしてディスプレイが大きく、きれいで見やすい。それでいて機能が段違いだ。動画、静止画は格段にきれいだし、音楽はプレイヤーとして聞くに堪えるように音がよい。あとお財布ケータイがついて、GPSがついて、さらにワンセグである。この小さなボディによくもここまで詰め込んだものだと感心する。




文字打ちで苦戦する


ひところ遊んだが、実際につかうのはメールとネット掲示板への書き込みなので、いざ文字打ちを始めると困ったことに、これが大苦戦である。

以前にも書いたが、このブログの文章は最初、移動中、歩きながら、ケータイで書いている。同じケータイを5年も使うと、キー操作が体にしみて、頭で浮かんだ言葉がどのように指が動いて操作しているのか知らないが、どんどん文章として打ち込まれていく。たとえばかな打ち後の漢字変換も、変換のどの当たりで必要な感じがでてくるかも体に染みついているのだろう。

しかし新しい機種にしたことでボタン操作方法が微妙に違う。一応、慣れた操作を見込んで同じメーカーの後継機種を買ったのだけど、キーの打ち込み場所が微妙にかわっている。たとえば以前は、キー操作は「あ→い→う→え→お→」の繰り返しだった。そしてたとえは小文字の「ぁ」のときは、あ→「受信マーク」だった。今度のケータイは、「あ→い→う→え→お→ぁ→ぃ→ぅ→ぇ→ぉ→」の繰り返しとなる。 このように操作が所々かわっていて、頭でわかっているのだが体がついてこない。

文章を打つということは、文字打ちがそれなりに文章思考のスピードとついてこないと、打つたびにキー打ち方に思考がもっていかれると、文章の流れに思考が回らずに、なにを書いているのか文脈がわからなくなってしまう。パソコンなどの大きなディスプレイならば、まだ書いた文章を見直し行きつ戻りつ書けるのだろうが、ケータイの小さな画面ではとにかく一直線に浮かんだ文章を打ち込んでいく必要がある。




「サイボーグ化」


もう頭がパニックでいらいらして、これだから慣れた機械を買い換えるのはめんどくさい、と思う。ではどうすればよいか。簡単で、ようは慣れればいい、そのうち慣れるそれだけの話である。しかしこのような経験は、逆にいままでのケータイとボクの身体がいかに一体になっていたかを気づかせる。これってもはや「サイボーグ化」なのではないだろうか。

サイボーグ (出典: 『ウィキペディアWikipedia)』)


サイボーグ(cyborg)は、サイバネティック・オーガニズム(Cybernetic Organism)の略で、人工臓器等の人工物を身体に埋め込む等、身体の機能を電子機器をはじめとした人工物に代替させることで、身体機能の補助や強化を行った人間の事。

たとえば数年前に、立花隆が紹介するNHKスペシャル「サイボーグ技術が人類を変える」が放送され、現代のサイボーグ化の現状について特集をしていた。

立花隆は)「一般に、サイボーグは機械と人間が一体化した、昔の漫画『サイボーグ009』のようなイメージをもたれているが、実際の生活の中にも(サイボーグ技術は)入っている」と説明。例えば、心臓ペースメーカーや、保険が適用されている人工内耳なども、「機械に身体の一部や機能を置き換えている」というくくり方で見れば、既にサイボーグ技術を導入している、と指摘する。

国防総省によるサイボーグ技術を使った“未来の兵士”実験 立花は、感電事故で両腕を失い、今は考えただけで動く「人工の腕」を手に入れた米国男性や、完全に視力を失い、ビデオカメラで撮った映像を直接脳に送りこみ、光を得ているカナダ人男性など、国内外の事例を取材。・・・「人間観を変える体験だった。人間は神経の固まりだと分かる。感覚器官と神経をつなぐことで、可能性が開かれると実感した」


「009」身の回りにも−Nスペ「サイボーグ技術が人類を変える」 http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/tv/20051101et04.htm



身体と機械の「慣れ」あい接合


一般的にサイボーグ化という場合には、機械と身体は機械、電気的に1対1の応答関係で結ばれていることを意味する。それが身体の一部になるということだ。今回のケータイのように手足で機械を操作する場合には、機械と身体の間には、きまぐれな思考が介入してしまい必ずしも1対1の応答関係にならない。

しかしボクのケータイの例のような慣れというレベルで機械と身体の接続関係(コネクション)が形成されると、思考によってかえようにももう体がうごいてしまうのだ。体で覚えたことはすでにそのように動いてしまっている。

さらにいえば、ただ機械を操作するだけではなく、レーサーのように車の運転がうまくなることで、CMでみられるように寸止めで小さなスペースに車を滑り込ませるようなことが可能になる。それはまるで車を身体の一部のように扱う。

実際のサイボーグ化で身体と機械が1対1の応答性で繋がったとしても、機械を使いこなすには訓練が必要になる。たとえば先天的な視覚障害により目が見えない人が手術によって生まれてはじめて目が見えるようになったとき、すぐに見えるわけではない。目が光を完治することとそれが見るという像として成立することが同じでないことを示す。見ることは一つの能動的な行為なのであり、見るためには脳を中心とする身体の訓練が必要なのである。




サイボーグ化する社会


そして最近の機械のインテリジェンス化は人が機械になれるだけではなく、機械もその人に慣れていく。PCやケータイを買うとまず行うのが、自分の好みにあった設定への調整である。今回のケータイでは文字打ちの方法は3種類あったし、カーソル移動の速度や、キーの割り振りなどの多くの調整機能がある。さらに文字をどんどん打つことで、よく使う文字を優先して表示されるようにケータイ側が自動的に調整されていく。

だれでも経験があるだろうが、新しいインテリジェンス機械を買うとこのように自分好みにチューニングすることが楽しい。それは僕だけのマシーンという承認行為でもある。そして身体能力が機械によって増幅されるとき快楽が伴うであろう車にのってスピードを出すことは、いままで足という身体能力に制約されていた走る能力が一気に拡張・増幅される。

このように考えると、現代のインテリジェンスな機械に溢れている生活は、知らず知らずに機械を巧みに使いこなして操作に慣れ、あるいは機械が身体にあわせることで、身体が拡張されるサイボーグ化が始まっているといえるのだろう。

*1