なぜ「オタクフィギュア」は16億円で売れたのか

pikarrr2009-01-19

フィギュア作品、16億円で落札

村上隆氏のフィギュア作品、16億円で落札
http://sankei.jp.msn.com/world/america/080515/amr0805151520009-n1.htm


競売大手サザビーズによると、日本の現代美術作家、村上隆氏のフィギュア「マイ・ロンサム・カウボーイ」が14日夜、ニューヨークでオークションに掛けられ、1516万1000ドル(約15億9200万円、手数料込み)で落札された。予想落札価格は300万〜400万ドルだったが、大きく上回った。

村上氏はアニメ・フィギュアなどのポップアートで知られ、米誌「タイム」の2008年の「世界で最も影響力のある100人」の1人に選ばれた。

昨年、現代美術作家村上隆のオタクフィギュア作品に16億円の値がついて話題になった。これについてNHKの特集「新しい文化“フィギュア”の出現〜プラモデルから美少女へ〜」(http://www.nhk.or.jp/etv21c/update/2008/1130.html)で触れられていた。村上隆はオタクではない。オタク作品を学ぶために伝説のオタクフィギュア職人「ボーメ」氏に教えを請い、「オタクフィギュア」作品を完成させた。

それが「芸術」という名の元に16億円で売れる。なぜこのようなことがおこるのだろうか。仮にまったく同じものがオタク市場で売っていてせいぜい数十〜百万円にしかならないのではないだろう。それが美術品として美術市場に流通することでこのような貨幣価値を生むのである。




「ショックの体験」


現代の芸術作品のあり方を明確に示した代表作は、マルセル・デュシャン「泉」(1917年制作)だろう。デュシャンが美術館にただの便器を展示することで意味したのは、美術品が作品そのものの「美」というような価値をもつのではなく、美術館という文脈が対象を「すばらしい美術品」としている。すなわち「美」は文脈(コンテクスト)と深く関係しているということである。

デュシャン以降、何が制作できるのか』と問われるように、美術の価値は、メタレベルで文脈を観察し、その既成価値(文脈)を解体することに求められるようになる。いま確かであるといわれるところの価値をいかに切り裂くか。それこそが真実への近接である。アガンベンはこれを「ショックの体験」と読んだ。どのように芸術の文脈に「ショックの体験」を生み出すように作品を投入するか。




オタクは「永遠」を手に入れた


先のNHK番組の中で、村上隆は、職人「ボーメ」は「オタク文化の海の中でサーフィンしている」、芸術家村上隆は「サーファーがオタク文化の海の中でサーフィンしている写真を撮らせてください」という立場である、と表現した。

これは、村上は、オタクというオブジェクトレベルではなく、「オタク」のようなもの」というメタレベルでオタクに関わっていることを表現している。オタク文化に帰属するのではなく、その外部から「オタク的なもの」「写真で撮り(切り取り)」、そして現代美術文化へ貼り付けたのである。そして「絶妙のタイミング」で貼り付けによって、現代美術に効果的に「ショックの体験」を引き起こすことに成功したのだ。

これはオリエンタリズムの系譜として考えることができるだろう。日本ではもはや当たり前のことが西洋中心主義文化へ投入されることで、既成概念の解体というショックの体験を引き起こす。たとえば19世紀に浮世絵がフランス芸術に大きな影響を与えたことは有名であるし、黒澤映画の時代劇など。

あるいは、YMOはオリエンタリズムを逆手にとったパロディ(アイロニー)だった。西洋の「オリエンタリズ」への憧れという文脈を知りつつ、あえて西洋人が考えるような「オリエンタリズ」を演じるというユーモアである。

西洋美術史は太古から脈々とつづく人類史に根ざしたものである。その歴史に「ショックの体験」を起こすことは、美術史上に刻まれた一つのモニュメントとなることを意味する。村上の作品を通して「オタク」西洋美術史に刻まれる。オタクが絶滅しようが、人類が存続するかぎり永遠に語り継がれていくのだ。




「強固な基盤」としての美術品市場


オタク市場と、「オタクフィギュア」作品が16億円もの値がつく美術品市場の違いは、まさにここにある。美術品市場は、このような人類史に根ざした永遠の「強固な基盤」に支えられている。それゆえにそこに関係する人々の人数、投入される資金など、市場規模がオタク市場と桁違いである。そしてさらにこのような時間を超越した「強固な基盤」故に、美術品は、その作品価値以上に、資産・投機の対象とされる。

美術品の価値は時間に左右されない、とともに資本主義では物価は上昇していくのであるから、美術品の貨幣価値は上昇していく。だから安全な資産として、そして転売すれば利益を生む投機としての価値をもち、美術品そのものに興味がない多くの人々にも魅力ある市場となる。

しかしこのような基盤はどこまでも信用によって支えられているものである。たとえば現代の資産・投機の対象といえば「土地」である。土地は有限であり、安易に変動することがない「強固な基盤」であるとされたが、バブルの崩壊とともに貨幣価値が激減した。

さらにいえば、これは市場そのものも特性である。たとえばボクたちが日常使っているお金の価値についても同様なことがいえる。たとえば最近ではジンバブエハイパーインフレーションに陥っている。(「100000000000000ドル紙幣が登場、異常なインフレ下のジンバブエ」 http://www.afpbb.com/article/economy/2559100/3691327ジンバブエの貨幣の信用が落ちることで、貨幣価値は急落する。いまの金融不安でもドルが急落し恐慌に陥らないように信用を回復するように様々な策がとられている。

美術品や土地は「強固な基盤」として信用されやすい故に投機の対象になり、また虚像的な価値=バブルを生みやすい。今回の村上の「オタクフィギュア」作品も、この金融不安のあとであれば、16億円もの値がつくことはなかっただろう。それでも、オタク市場での価格とは桁違いであったことにはかわりがないだろうが。




美と資産の「物象化」


これを図式化すれば、以下のようになるだろう。

美術史の文脈に作品投入→効果的な「ショックの体験」→美術史上のモニュメント化→美術市場での高い貨幣価値評価→投機・資産価値として評価される。

この図式は単に一方向のものではない。近代以降の芸術において「ショックの体験」が重視されてきたのは、資本主義社会の発展と切り離させない。資本主義における美術品市場、その投機・資産な面が美術品そのもの、すなわち現代の美のあり方に影響している。

これは現代の美術家が金儲けを狙って「ショックの体験」を目指しているというような短絡的なことではない。たとえば近代以前には、現代のような純粋な芸術家は存在しなかった。創作するひとは職人であり、パトロンに資金をもらい作品を制作した。そして職人の優れた作品が事後的に芸術品と呼ばれているのである。その意味で、現代の芸術家の方が純粋な美の探求者であるともいえるだろう。

創作品についての大量生産/職人/芸術の対比で考えてみれば、大量生産、あるいは職人が貨幣価値に根ざし、芸術作品が切り離された純粋性を目指すということではなく、純粋性を目指すという美のあり方そのものにも、「経済的コンベンション(慣習)」が下部構造として根強く作用しているということである。