なぜSMプレイは「純粋な快感」へ導くのか

pikarrr2009-01-22

ヴァーチャルな体感ゲームアイロニー


遊園地にいくとジェットコースターなど激しい体感型の乗り物が楽しいが、最近はこのような体感型の乗り物をヴァーチャル化したのものが流行である。たとえばヴァーチャル「激流」ではボートで激流下りをしていることが体感できる。大型のスクリーンにボートに乗った視線からの風景が映し出され、岩にぶつかりかけたり、滝に落ちたり、スクリーンにあわせて座席が激しく揺れる。

このようなヴァーチャルなゲームは本物の体感型乗り物と同じようであっても、その楽しさには違いがあると思っていた。本物のジェットコースターは実際に風を切り、体か飛ばされそうになり、怖い。

それに対してヴァーチャルなゲームは体感の刺激そのものでは本物をこえられない。さらには、ここが部屋の中で疑似体験であるというメタレベルの状況(コンテクスト)への認識がある。言わばそれは一つの劇である。だから体感している人にもどこか「怖がっているふり」という演技がある。

だからつまらないのではなく、それでも怖い、驚かされてしまうというメタレベルの認識を越えていくという快感があるのではないだろうか。騙されている自分がおかしいなと思いつつまた驚かされてしまう。本物のジェットコースターの刺激が身体にくるとすれば、ヴァーチャルのコースターの刺激は身体にきつつ「頭」にくるというアイロニカルな面がある。




性関係は「妄想」が先行する


たとえば実際のセックスと、エロビデオを見ながらオナニーするのでは気持ち良さが違うが、ここにつながるのかもしれない。実際のセックスは愛撫など実際の性感帯への刺激により快感を感じる。オナニーの場合も性器への刺激はあるが、そこにはたえずビデオのシーンへの興奮が先行する。先に例で言えば、本物のセックスが身体にくるとすれば、オナニーは「頭」にくるというアイロニカルな面がある。

しかし性関係の場合は体感ゲームのように単純ではないかもしれない。性関係は社会的にタブーとされてきた。このために実際のセックスを体験するよりも、エロい情報に興奮することやそれをネタにオナニーすることが体験される。このために性関係はそのはじめにもんもんとした「妄想」的なものとなる。

このために実際にセックスするときにも、「妄想」が先行する。体感的な性的な刺激を感じるよりも、ビデオのようにセックスしているという自分を見るというメタレベルの認識への興奮が先行する。

その後、セックスを繰り返しても、このような妄想の先行は簡単になくならない。このような人間の性関係におけるヴァーチャル性(妄想度)の根深さは、性関係が太古から様々な神話が蔓延るドグマティックな領域であったことからもわかる。




性的興奮は社会が見る「妄想」


このようなヴァーチャル性は人間の性関係に特徴的であるとともに、他の動物に比べて人間がなにものであるか、という特徴でもある。フロイト精神分析において(幼児の)性関係を中心に据えたのは性関係がこのような「妄想」がもっとも表れやすい場だからだろう。

人間はなかなか単純に世界を身体刺激として体感せずに、メタレベルへの認識を介して世界を認識する。それ故に「妄想」に悩まされる。たとえばマルクスが資本主義における「商品」を物神性(フェティシズム)と呼んだことも、また消費の促進するためのマーケティングにおいて人間の「妄想」がターゲットにされるのも、このような「人間という症候」を原理とする。

そしてこれらは個人的な狂った「妄想」ではなく、社会的に構造化された「妄想」なのである。エロビデオに興奮するとき、セックスをするとき、商品に魅了されるとき、それらは社会的な「妄想」である。




社会的なドグマの向こうの「純粋な快感」


セックスの「純粋な快感」はこのような社会的な「妄想」の先にある。このような「妄想」を越えた純粋な性感帯の刺激による快感である。しかし人間の「妄想」の根深さを考えると、そこへ到達するのは容易なことではないだろう。セックスを繰り返し繰り返しやって、性感帯が十分に「開発」されて、飽きたと思った頃にやってくる。

女性の純潔を求める処女信仰や、セックスは男が女を気持ちよくさせるもの、女性をいかにあえがせるかというような男根主義、あるいは男のエクスタシーは女性に比べわずかでしかないというような科学的迷信など、重厚な性関係をめぐる様々な社会的なドグマの向こう側に真のエクスタシーは広がっている。

現代のセックスに関する最大のドグマはエロビデオだろう。当たり前のことではあるが、エロビデオでのセックスは、やっている人が気持ちがよいのではく、見ている人が興奮するように作られている。たとえば女性のあえいでいる姿が見えやすいような、見た目が派手であるような、あるいは性器の結合がみえやすいような体位がとられる。

現代の日本人はエロビデオでセックスを学ぶために、誰も見ていないのに見ている人が興奮するようなセックスするのは滑稽である。しかしそこでは、アダルトビデオのようなセックスをしている自分を視る「視線」があるのだろう。




SMプレイによる「純粋な快感」という逆説


残念ながらボクはSMの経験はないのだけれど、SMプレイは逆説的に「純粋な快楽」へ導く方法なのかもしれない。

SMプレイはサドとマゾというあらかじめ決められた役割を演じる一つの劇である。SMプレイを楽しむ人には社会的な地位が高い人が多く、社会的な役割のストレスから一時的に解放されるからだ、とも言われるが、「こんなことをされている私」というメタレベルの状況(コンテクスト)への認識があり、そこに自虐的でアイロニカルな快感が生まれる。

しかしSMプレイの快感はアイロニカルなものだけとはいえない。あらかじめ役割を決めることが、実際の社会的な立場(役割)を崩す言い訳になる。そして演技をフェイクにして自分自身を騙し、通常のセックスでは抵抗がありできないような激しい刺激をどんどん受け入れていく。そこでは逆説的に社会的なドグマを解体した「純粋な快感」に近づいているのかもしれない。




人は演じることでしか真実を暴露できない


ボクは実際のジェットコースターが苦手である。強制的に恐怖、苦痛を与えられることに納得がいかず、体がこわばってしまう。おそらく頭で考えずに、単純にわーきゃー!いえば、楽しめるのだろうと思う。これも慣れである。

それに対して、ヴァーチャルな体感ゲームが結構、楽しめてしまう。そこには騙されている自分がおかしいなと思いつつまた驚かされてしまうという知的な刺激がある。そしてこのような知的な刺激を言い訳に刺激を受け入れているのかもしれない。

SMプレイのはての恍惚の快感は、屈辱を受けてもうどうにでもなれという自己放棄により、性的刺激を直接受け入れたところにあるのだろう。一度、滑稽な役を演じることを迂回しなければ「真実」を受け入れることができない。

人は演じることでしか真実を暴露できないことが多々ある面倒な生き物である。
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