なぜ数字はグローバルな共通言語となったのか

pikarrr2009-01-27


1)ベイトソンの学習論


「経済コンベンション」は普遍であるといっているわけではなく、近代という歴史状況を考えると、グローバルに共通な社会基盤にするのにもっとも有用だろう、ということです。

コンベンションとはなにかをわかりやすく説明するために、ベイトソンの学習論」*1がよいでしょう。ベイトソンは学習することを階層的に分類しました。

<学習0>・・・下等な生物の行為は、遺伝子によって決定され行為する。だから学習の必要がありません。

<学習1>・・・たとえば動物に芸を教える場合。行為を反復させることで学習します。ある信号(命令)に対してある行為をするように繰り返し体に覚えさせます。

<学習2>・・・たとえば人間が芸を覚える場合には、繰り返し体に覚えさせるとともに、この芸がなんのために行われるか、理解します。文化祭で人々を楽しませるために芸を覚えているというコンテクスト(状況、文脈)も学習します。コンテクストも理解するということは、教えられたことだけを覚えるのではなく、そのコンテクストに合わせて、自ら芸を発展、改良することが可能になります。*2




2)動物にメタレベル(学習2)はあるか。


先にメタレベルといったのは、<学習2>のことです。そして一般的に「演技」とは、<学習2>によります。たとえば笑い=楽しいということを、楽しくもない状況(コンテクスト)で行うこと。このような「演技」は<学習2>の状況(コンテクスト)理解があって、切り替えることです。

<学習2>が人間以外にできるのか、というのは難しい問題です。ある動物の振るまいが演技であるか、人が演技であるようにみてしまうのか、判断することがむずかしいからです。

一つの例として、鏡をみせる実験があります。鏡を見せて写っているのが、自分であることがわかれば<学習2>が可能であることになります。なぜならば自己認識というのは、状況(コンテクスト)理解があり、そこにいる自分として表れるからです。実験では、ゴリラのような一部の高等な猿とゾウが自己認識可能とといわれています。だから彼らには<学習2>によって「演技」できる可能性があります。




3)人の多様なコンベンションは<学習1>と<学習2>


では人がコンベンション(社会的自生秩序、慣習)を学習するのはどのレベルでしょうか。<学習1>と<学習2>です。人はある社会コンベンションに生まれ落ちて、生活する(反復する)ことで、知らず知らずにそのコンベンションを学習して、身につけていきます。

しかしそれだけではなく、あるとき思うでしょう。「この社会コンベンションはなぜこうなんだ」と。そして古いコンベンションに対してこのように変えた方が有用ではないかと創造を始めます。そしてその新たなコンテクストが人々の広まり、コンベンションとして習慣化されていきます。先に「コンベンション=習慣化されたコンテクスト」といったのはこのような意味です。このように人間の文化コンベンションは<学習1>と<学習2>を往復することで、「地域的」に多様な社会文化コンベンションを形成しています。

若者は好奇心が旺盛で、柔軟な思考をもち、既存のコンベンションへ反発します。そして社会コンベンションは少しずつ変化していきます。これは生物学的に組み込まれた文化の新陳代謝とも言えます。




4)動物の社会文化コンベンションは<学習1>


では人間以外の生物はどうでしょうか。下等な生物は遺伝子の命令に従い、<学習0>によってのみ行為しますが、高度な動物では、<学習1>によって伝承された社会文化コンベンションを持っています。

たとえば猿が群れるなどの基本的な行為は遺伝的な<学習0>によるでしょうが、群れごとに鳴き声が違うや温泉に入るなどは、環境にあわせた群れごとの文化的な特色を持ちます。それはあるとき偶然生まれて、それが生活する(反復する)ことで群れの文化として身につき、受け継がれたものです。このような新たな行動は好奇心旺盛な若い猿から始まると言われるのは人間と似ています。

しかし(十分な?)<学習2>を持たないために、コンテクストを理解して意図的に操作し、変えていく能力はありません。だから人間のような多様な社会文化コンベンションをもっていないのです。




5)人が<学習2>を可能であるのは言語を獲得したため


<学習2>という人間と他の動物との大きな違いは、人間が言語を獲得したからだと言われています。コンテクストを理解し、操作するというのは、簡単いえば、頭の中でミニチュアの世界があり、それの中のものを想像して操作し遊ぶことです。

このような内的な世界の構築に言語が必要です。目の前にあるリンゴ、ではなく、抽象的なリンゴという言語を記憶し維持し続け、その他の言語との関係を好き勝手に操作し遊ぶ。

言語学では、論理学と修辞学(レトリック)があります。論理学において、論理法則を学び、言葉をつなぐことは、基本的に<学習1>です。それに対して、修辞(レトリック)は異なるコンテクストに言葉をはめ込んでいくことで、新たな言葉をうみだしていきます。「赤ん坊のような肌」「満点の星空」「心の宝石箱」など。これは<学習2>です。通常、ボクたちの会話は自由度が高い修辞(レトリック)です。レトリックは言語の原初的な場は隠喩(メタファ)、換喩(メトニミー)などの修辞学(レトリック)であると言われます。




6)人はどこまで赤ちゃんのように純粋に笑うことができるのか


では人間にとって<学習0>は可能でしょうか。人間も遺伝子の影響を受けているのでは当然です。身体的、生理的なものは遺伝的に決定しています。しかし行為はどこまで遺伝的でしょうか。

先に言ったように、赤ちゃんは生まれながらに教えなくても、笑いを理解します。これは生存が完全に他者に委ねられているためと言われます。自分が笑うことで可愛がられる。笑顔を認識して味方を識別するなど。

しかし生まれてすぐに、社会コンベンションに毒されていきます。正確にはお腹の中からですが、親は子供に懸命に話しかけます。言葉を覚えていくということはそれだけで、文化コンベンションの「刷り込み」の始まりです。そして成人になったときに純粋な<学習0>はどこまで残っているでしょうか。

大人はどこまで、赤ちゃんのように純粋に笑うことができるのか。これは難しい問題です。人は社会文化コンベンションを獲得することで「人間」になります。言葉は幼児期に学習しないとそれ以降習得できません。そして言葉を学習できなかった人は、人としての認識能力が大きく欠落して、知能障害の状態になります。これは逆に、人が社会文化コンベンションから逃れることができないことを示しています。




7)脳還元主義エンターテイメント


下等な動物ほど生まれながらに遺伝的に完成された能力を持ちます。卵からかえるとすぐに自分で生きてきます。高等な動物は親に育てられる幼児期を持ちますが、すぐに自分の足で歩けるなど、自立性を持ちますが、人間がなにもできない未熟児の状態で生まれます。そのために成体に生まれてからのコンベンションが大きな影響を持ちます。

たとえば今月、NHKスペシャル『女と男』(http://www.nhk.or.jp/woman-man/)という番組がやっていました。「なぜ男と女は分かり合えないのか」のようなことを、生物学的身体機能の男女差から説明します。物理的に身体機能差があるとして、考え方、認識方法などの文化的な面が、男女という身体機能に還元することは強引としていえません。

男女という2分類で説明しようとすることは、人類のコンベンションの多様性を抑圧します。こういうのを自然主義的な誤謬と言います。最近の脳科学の発達によって、このような脳還元主義が血液型占いと同じレベルでエンターテイメント化しています。これについてはあまりに多くの人が指摘しつくしていますし、おもしろければよいのですが。




8)数学は<学習ゼロ>のよう


ここで数学を学習することはどこに対応するでしょうか。数学は絶対的な真理ではなく、いくつかの公理によって成り立っている一つの社会文化コンベンションです。だから論理学と同じく法則を学び計算する<学習1>です。また数学者はあらたな方式を開発し、拡張していくと言う意味では<学習2>です。

しかし面白いのは、たとえば自然数ペアノの公理という5条件によって成り立っているように、数学は単純なコンベンションによって成り立っており絶対的な真理ではないか、と言われてきました。これらはあたかも<学習0>のように扱えます。遺伝情報はDNAの塩基配列を媒体としてコードされて基本的に<学習0>であるように、数学やアルゴリズムを組み込まれた機械やコンピューターは<学習0>です。

このように数字はコンテクスト依存が低く、<学習0>に近い特性をもつことで、情報を広範囲に高速に正確に伝達します。そして数字を元にした科学技術や貨幣交換の経済コンベンションは世界各地で再現され、改良され根付いていきました。今後もグローバルな下部構造としての共通な社会基盤として有用性であると考えられます。
*3

*1:「精神の生態学 グレゴリー ベイトソン ISBN:4783511756

*2:コンテクストを操作するのは<学習3>と呼ばれます。

*3:画像元 http://tamatebako-web.com/ns/shop/00290/topics.html