なぜ資本主義は神を殺害したのか 贈与関係から金融交換へ その2

pikarrr2009-02-04


偶然性と予測可能性


いつも世界は偶然に満ちている。それは「時間が流れる」ということと同じ意味である。時間は流れ、次に何が起こるか決して予測することはできない。それが「偶然性」である。そして人はいつも偶然性という自然環境の気まぐれに生存をゆだねてきた。

偶然性を生き延びるために発達させたのが、助け合いと技術である。助け合うことで一人ではできないことを成し遂げる。そして技術によって身体以上の力を発揮する。これらは本質的には、偶然性に対して、予測可能性を高める行為である。助け合いと道具(技術)による知恵と力によって、偶然との間に予測可能性の防御壁を構築する。

たとえば自然の天候、気温がどのように急に変化しようと、住居を持つことで安定した生存状態が保証される。農耕を行うことで安定した食料確保が保証される。道をつくることで躓くことなく目的地へ高速に移動することが保証される。




神と贈与関係と技術


人々は目の前に偶然性という暗闇が広がっていることに耐えられない。だからこの世界は偶然などではなく、「誰か」が支配しており、環境変化には意味がある「誰か」からのメッセージであると考える。そこに「誰か」がいるならば、対話し(祈り)によって願いを叶えてもらえる可能性が生まれる。

これも一つの予測可能性であり、単なる妄想であるわけではない。たとえば贈与関係は神を中心に組織される。呪術的な供養は、神を自分たちの贈与関係に引き入れて仲間とするためにある。そして神からの贈与(自然の恵み)を分配する形で、助け合い(贈与関係)は掟をもって秩序を形成する。

また様々な技術は神と切り離して考えられない。星の運行は神との関係としてある。そして贈与関係を基本とした土着のコンベンションは神話によって世代を超えて伝承される。

たとえば封建的な階級制が発達しても、王は暴力によって人々を従えたわけではなく、神を中心とした贈与関係を継承しつつ、自らをもっとも神に近い者に位置づけ、人々からの贈与を集める。そしてその代わりに社会整備や外部からの攻撃を排除するなど、予測可能性を高めることで返礼を行った。




「膨大な商品集積」という予測可能性の壁


このような贈与関係による生存から、新たな予測可能性のあり方を示したが、資本主義である。

貨幣は貯蓄され、融資され、また投資されることで、時間、空間を越えて、そして増幅される。それによって人々は商品を購入し、生活を囲む。そして規格化され合理的に積み上げられた商品集積によって世界は一気にフォーマットされる。商品集積は予測可能性の防御壁となり、土着の贈与関係から離脱しても生活を保障する。

贈与関係が金融交換に代替されることで、贈与関係と技術と神の蜜月関係は破られる。神は死に、そして技術は金融の支援を受けて科学技術として発展する。




豊かさとは商品に囲まれつつ夢をもつこと


人々が金融交換へ魅了されたのは、新たな安心(予測可能性)が構築されただけではない。偶然性が「リスク」として現前化されつつ、さらには「チャンス」へとかわった。金融交換は、ただ貨幣等価交換するだけではなく、リスク(チャンス)によって、豊かさを増幅する可能性を与える。

豊かさとはまず偶然性を排除し、予測可能性を向上することであるが、資本主義ではさらにチャンス(成功可能性)として偶然性を呼び戻すことである。ただ物質的に豊かであるだけでなく夢をもつこと、それが資本主義の豊かさである。

贈与関係は、リスクを信頼関係で埋めることでチャンスを潰すのであり、いくら安定を実現したとしても、資本主義的には豊かではない。贈与関係は偶然性を押さえ込み、社会を永遠の神的サイクルに閉じこめようとするが、資本主義は偶然性を押さえ込みつつ、リスク(チャンス)として偶然性を呼び込み、社会に「時間を与える」
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