なぜネットの公共性は深化するのか 「炎上で摘発」について 

pikarrr2009-02-06


芸能人ブログを集中攻撃、「炎上」させる…18人立件へ http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090205-OYT1T00022.htm


著名人などのブログに悪意の書き込みが集中して閉鎖に追い込まれたりする問題で、警視庁は、男性タレント(37)のブログを攻撃した17〜45歳の男女18人について、名誉棄損容疑で刑事責任を追及することを決めた。

「殺人犯」などと事実無根の書き込みが繰り返されたという。警察庁によると、「炎上」と呼ばれる現象を引き起こす集団攻撃の一斉摘発は初めて。匿名を背景にエスカレートするネット世界の“暴力”に歯止めをかける狙いがある。

ネット上での中傷被害は年々増加しており、警察庁によると、全国の警察への被害相談件数は07年、過去最高の8871件。08年も上半期だけで5482件に上っている。

(2009年2月5日03時03分読売新聞)




誹謗中傷は社交的に発言される


ネット上の過激な発言を社会では言えない「本音」と言う人がいるが、そのように単純に考えることはできないだろう。ネット上の過激な発言は、ネットの匿名性や人が集まる、発言しやすいなどのネット環境(コンテクスト)と切り離せない。

一般社会での顕名の発言が、その状況にあった社交的なものであるとすれば、ネット上の過激な発言もまたネットという環境にあった「社交的」な発言なのである。過激発言による逮捕者の多くが、逮捕後に神妙になり、「悪意はなかった」「言ってみただけ」と発言するのは、「そういう空気だったからのせられた」、さらに言えば「自分は場に言わされた」ということだ。だから許されるということではないが。

だから警察の介入を、ただ言論の自由への抑圧であるとか、本音や言いたいことがいえなくなると考えるのは間違だろう。警察の介入には場に流される前にその発言に責任が持てるのかを気づかせる、ネット上でも過激な発言には責任がともなうことを意識させる抑止の効果が期待できる。




ネットの公共性の深度


意見をいうことと誹謗中傷の境界を定めることも難しいなか、警察の介入によってすべての誹謗中傷をすべてなくすことなどできないし、逆にそれを目標にすることは言論統制である。

それでも、ほんとに意見を言いたい人は責任をもって言え、ということだ。あるいは責任を持てずに、発言したい人は「地下」に潜ればよい。もはやネット上においても場(コンテクスト)をわきまえなければならない、ということだ。

そこに生まれるのは、ネットの公共性の深度である。公共性高いところでは発言を慎み、責任をもち、公共性の低いところでは、過激な発言をする。過激なエロ画像、幼児エロ画像を扱いたい人は、人目につきにくい場所へとより深く潜る。お金を稼ぎたい業者は、リスクとメリットを考えつつ、アメリカにサーバーを移すなど様々な努力をする。

これは一般社会で行われている公共性のあり方の一つである。ネットもこれだけ普及して、公共性の階層を明確にしていく時期にきているということだろう。




ネットメディアはTPOごとに発展する


ネットをどこまで規制するか、技術的にできるのかを議論することと並行して、現実問題として警察の腰が重いのは一番はコストメリットが低いことではないだろうか。二次効果としてあっても、ネットの発言そのものが傷害や殺人を起こるわけでなく、警察の人員を動員するコストに対するメリット(効果)が低い。逆にいえば、いかに効果的に介入するかが重要になる。警察の介入が見せしめ的であるのはこのためだ。

だからネット上の秩序の基本は、曖昧ではあるがネットを使う人々の社会性や倫理によって乗り越えていく必要がある。そしてこのような傾向は、すでに進んでいる。ブログやミクシーの登場は、2ちゃんねるに対して公共性、社会性の高い場所として成功・発展してきている。ボク自身も気がつけば、ネットメディアのTPOによって、発言のキャラを使い分けている。

今回の件は、タレントのブログというのは、多くの人に目につき公開性が高く、公共性が高い場所であるのだから、そのような場所での誹謗中傷は控えるべきであるということを意識させたということだ。その意味で警察の対応は遅きに失した感もあるが、ネット上での反響をみると「見せしめ」として成功したと言えるのだろう。
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