なぜ資本主義はいつも国家独占的なのか

pikarrr2009-03-06

独占的資本主義と戦略の時代


独占的資本主義の重要性は国家競争にある。レーニン帝国主義論」ISBN:4334751121)で示したように独占的資本主義は先進国による世界を分割する闘争になる。この段階では国民はただサヨ的にブルジョア、国家を批判しているだけでは意味がない。なぜなら国民は自国の独占資本が世界闘争で勝つことの恩恵にあずかるからだ。国内での格差があっても、下流の水準を後進国よりも高く設定される。独占資本の勝利が自国の富につながる。

これはレーニンの時代より、いまこそ実感される。これがサヨにリアリティを失わせている。いまは企業統合の時代である。銀行、鉄鋼、家電次々に統合が奨められている。これを独占として非難する人はいない。松下と三洋の合併は独禁法の関係で遅れているが、みなが統合を歓迎している。今後も各業界で進むだろう。これはグローバルな競争を勝ち抜くためである。

国際的な競争は今のほうが激化している。あるいはBRICsなどの対等でプレーヤーがいれかわり、再分割となっている。そして新たな闘争に向けて国家が再浮上している。中国の最大の企業は国家である。中国は世界の市場で金にものをいわせて大企業を圧倒している。特に目覚ましいのが資源関連である。囲われた海外資源により日本への輸入に支障をきたすのではといわれている。




再競争時代


アメリカのバブルがはじけたいま、再競争時代に突入している。本質的な問題は国内格差や派遣雇用ではなく、日本国そのものの生き残りである。負け組は国内経済自体が浮上することが困難になる。

独占的資本主義はかならず国家と密接な関係を保ち、国家の役割の多くを保管する。治安、インフラ整備、豊かさなど。国民が独占的資本主義を望むのは安心をえるためである。たとえば最近の例ならばドコモがあるだろう。ドコモは国内で独占的であるために、価格がさからず、サービスを抱え込んでいることが非難される。それが顕著であるのがグローバルにおける孤立である。これは単にドコモの問題ではなく、国家行政との協約の為せる業である。国民はある程度これを許容している。安心、安全であるからだ。




独占の問題点と利点


独占の問題は自由な経済活動の抑圧である。正当な企業活動であっても大企業のボリュームは力となる。大量生産効果、販売網など。しかしそれだけではすまない。力はかならず権力として作用する。国家と密接な関係をむすび、さまざまな仕入れや、銀行からの融資など、ただ優遇されるだろう。いまのアメリカのGMの融資は独占の利得でしかない。そして独占は価格、新規参入など、市場をコントロールする。

独占の利点は安心を与える。大企業というブランドが人々へ信用を与え、安定した社会貢献につながる。そのひとつが雇用の安定した供給である。大企業は裾野広く末端の零細企業まで雇用を提供し、国内の生産性を向上させる。これは時にグローバルな競争において、重要である。他国との差異により自国の豊かさに貢献することで国民に豊かさを還元する。現代は独占に関するさまざまな規制がきびしくなったことと、グローバルな競争が激化したことから、むしろ利点が重視されている。




独占的資本主義の必要性


さらに重要なことはレーニンの言うこととは異なり、資本主義はそのはじめから独占的であったということだ。独占でなかった経済学的自由主義な資本主義は存在しなかった。そしてそのはじめから、グローバルであり、そして金融資本主義であったということだ。

ならば資本主義とは、独占の欠点を抑制し、利点を生かすかということが重要になる。しかしそれはあまりにナイーブかもしれない。このような独占の透明性をただ重視することは、資本主義がそのはじめから国家との結びつきが強かったと考えるときに、国際的な闘争を考えなければならない。

国家間の闘争にルールはあるのか。国家間を統治する国家は存在しない。アメリカが世界の警察と言われたとき、そこにはアメリカの思惑、それは国家戦略であり、またアメリカ系の独占資本主義である金融、産業資本の思惑が強く繁栄される。グローバルはいまも闘争であるということ、を考慮しなければならない。




資源競争にWin−Winはあるか


カールポランニーは第一次世界大戦までの100年のあいだ、長期的破壊的な強大国間の戦争の勃発を完全に回避してきたのは、バランス・オブ・パワー・システムによると言った。経済活動がグローバルに密接につながることで、戦争による経済活動の破壊は避けられた。

しかし帝国主義ではまだ重商主義からつづく植民地による利益は大きなものであり、そのための植民地という領土の取り合いがあった。領土は有限であるために、世界の分割は取り合いとなり、武力衝突へとつながった。

しかし世界大戦後、勝ち組は欧州から自国を戦場にしなかったアメリカへと移った。戦争は割に合わない。そして戦争はその外部にいるものを豊かにする。日本が第二次世界大戦後、急激に復興したのは朝鮮戦争への物資の共有によると言われる。

さらには世界大戦後、経済は植民地という領土を求める重商主義ではなく、重産業主義への傾向を強めた。産業による経済活動は、有限の領土の取り合いとは異なり、ともに経済発展するというWin-Winの関係を可能にする。現実には、先進国/途上国という搾取構造があったことは否めないが、強国は協力関係であり得た。

しかし次の段階に入りかけている面がある。資源競争の時代である。資源は有限であり、必ずしもWin−Winとならない可能性ある。そうなれば、21世紀に再び生存か賭けた戦争が回帰する可能性は無視できない。特に、アメリカの主導の凋落したいま、中国、ロシアの資本主義は、国家権力主導の独占資本主義がグローバルでの力を強めている。



独占は、生産の集中が非常に高度な発達段階に達したとき、それを母胎として成長を遂げた。そのことは、カルテル、シンジケート、トラストなど、資本家が形成する独占資本に当てはまる。・・・それらの独占体は二〇世紀初めまでに、先進国において完全に支配的な存在になった。

独占は銀行の中から成長する。銀行は、決算の仲介を生業とする地味な機関から、金融資本を独占する機関へと変身した。先進資本主義国の中でも最先端を行く諸国では、例外なく三ないし五の巨大銀行が、産業資本と銀行資本の「人的結合」を実現した。・・・そしてその資金というのは、一国の資本および貨幣所得の大部分を占めているのである。金融寡占制は、現代のブルジョア社会のすべての経済的、政治的組織に、例外を許すことなく、目の細かい依存関係の網をかぶせる。まさにここに、独占がこの上なくはっきりと正体を現している。

独占は植民地政策の中から成長した。・・・これらの闘争は要するに、有利な商取引、利権、独占利潤などの縄張りをめぐる闘争であり、究極的には経済的な縄張り一般をめぐる闘争である。・・・全世界が分割済みになったとき、独占的な植民地所有の時代が避けようもなくやって来た。このような時代になると、世界の分割と再分割を目指す闘争が格段に熾烈化する。

独占的資本主義が出現すると、資本主義の矛盾がことごとく深刻化する。それがどれほどのものかは、周知のとおりである。物価が高騰し、カルテルによる抑圧が深刻化する、ということを指摘すれば十分であろう。このような矛盾の深刻化は、過渡期の歴史を動かす原動力の一つとなる。P234-246


帝国主義論」 レーニン (ISBN:4334751121) 1917



資本主義があいついで数々の局面を踏んだり跳躍したりするうちに−−商業資本主義、産業資本主義、金融資本主義・・・・・・等々−−発展を遂げたように想像したりしたら、誤謬に陥るであろう。・・・大昔の大《商人》はけっして専門化することなく、商業、金融、株式投機、《工業》、生産、問屋制による生産、あるいはもっとまれには工場制手工業・・・・・・等々による生産を、無差別に、同様に、あるいはあいついで行っていたのである。商業・工業・銀行が扇形をなしていた。すなわちいくつかの種類の資本主義が共存していた。そのような形態は、すでに十三世紀のフィレンツェ、十七世紀のアムステルダム、早くも十八世紀以前のロンドンで展開していたのである。いかにも十九世紀初頭には、機械化によって工業生産は利潤の高い部門となり、そのとき資本主義は大挙してこれに合流した。

他方、十九世紀から二十世紀にかけての、自由競争を旨とする資本主義については、ありとあらゆることが語られてきたというものの、それが発達するなかで独占が権利を失ってしまったわけではない。ただ、以前とは違うさまざまの形態、つまり《トラスト》や《ホールディング》から始まって、例のアメリカの多国籍企業にいたる、じつに一連の他のさまざまの形態を帯びただけのことである。

要するに、資本主義の主要な特権は、今日でもついこのあいだと同じことで、依然として選択する自由に存する。・・・すなわち、その支配的な社会的地位。その資本の重量。その借り入れ能力。その情報網。またこれに劣らず、いくつもの連係にも由来している。これらの連係は、強力な少数派のもろもろの成員のあいだに、一連の規則や表立たない協力関係を作り出しているからである。・・・そして、選択の自由があるから、資本主義はいつでも方向転換が利く。その活力の秘訣はそこにある。<国家>と<資本>とは、ついこのあいだも今日も同様に仲良くしており、そして資本は、われわれの眼前で、うまいこと急場を切り抜けて見せるのである。以前もそうだったが、あまり得にならなかったり、費用がかかりすぎたりする任務は<国家>に任せてきた。・・・<資本>と<国家>とが協調しているのは、なにもいまに始まったことではない。この協調は近代の数世紀を貫き通している。

今日なお語られていることだが、もろもろの体制のうち、資本主義は最良と言えないにしても、すくなくとも悪性の度がもっとも低いものだし、財産に手をつけないのに社会主義システムよりも効率が高いし、個人の発意を大切にしているという(シュンペーターの語った革新者に栄光あれ!)。P317-321


「世界時間2」 フェルナン ブローデルISBN:4622020564) 1979



21世紀初頭の日本経済は、高度に独占化(寡占化)された経済であることが確認できる。新古典派の想定する完全競争の世界ではない、マルクスが想定した自由競争の世界でもない。こうした想定は、あまりにも現実と乖離していることを指摘しておきたい。この経済力の集中化は、物価騰貴や、独占資本主義に固有の停滞性や腐朽性をもたらす根源である。しかし単に独占化の弊害だけを見るのは一面的であり、こうした独占のもとでの生産力の発展は、同時に社会主義的な計画経済を可能にする物質的基盤をもつくりだしていることも認識しておかなければならない。


「現代マルクス経済学」 長島誠一 (ISBN:4921190496) 2008


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