なぜ「自然は真空を嫌う」ように社会は等価交換を嫌うのか

pikarrr2009-03-26

0)実際に純粋贈与はあるのか?

427 名前: 考える名無しさん 投稿日: 2009/03/26(木) 10:56:32


何故、贈与を求めるのか?それは、市場原理を逸脱する為であり、柄谷の言う「この私」としての自立する存在を客体的な機関に捉えられないためなのだろう。だから、無垢な絶対贈与は、ポトラッチにあっても越えられないものである。消尽に虚勢が見えるとき、それは、自分に回収される行為として、つまり、尊敬されると言う反対給付を求めるものだからである。

実際に純粋贈与はあるのか?つまり、生産された富を何の役にも立たないように消費つくされる事は可能なのか?供犠・祝祭は、生産物を見返りなしに消尽しつくし、決して有用性の中に回収されないことによってのみ、聖なるものを帯びるのである。ここが、バタイユの論点な訳だ。

だから、ぴか〜の言うような犬に餌を与えることが、絶対贈与ではないのである。犬を飼うのは、自分を慰めると言う反対給付に根ざしているのだよ。

君が引用するマルクスは現代において何故再度重要視されているのか?単純に柄谷のトランスクリテークから、引き出したのでは自分で意味が分かっていない事になるよね。何故今マルクスか?柄谷もアルチュセール関連で引き出している様でもあるよね。不十分でしょう。これでは。どう思うかね??




1)贈与交換と貨幣(等価)交換と純粋贈与


まず、贈与交換と貨幣(等価)交換の関係をおさえないといけません。現代は、経済、社会、政治という三項で語られますが、本来は「社会」として一つだった。そしてそれは贈与関係によって支えられていたわけです。貨幣(等価)交換はありましたが、補助的なものです。

それが、現代では三項に分離した。なぜか。貨幣(等価)交換が浮上したからです。すなわち社会、政治=贈与交換、経済=貨幣交換と分離した。そしてさらに、貨幣交換は社会、政治へ浸食している。これがマルクスのいう「物象化」です。

そして物象化によって、贈与交換の位置づけも変容してしまった。それが、柄谷の言う「この私」ようするに、自己承認機能です。ラカンでいえば、欲望の原因であり、対象である、対象aです。ようするに、社会が物象化し、合理化する中で、反動的に自己存在が強迫神経症的に贈与関係として過剰に求められるようになるわけです。

貨幣(等価)等価交換は、「誰でもいい」交換であるのに対して、贈与交換は、「誰であるか」の交換だからです。誰かに贈与したい、誰かから贈与されたい。それはつながりたいということであり、自らが誰であるか、証明したいという欲望です。

そしてこの強迫性において、欲望は享楽になっています。享楽とは、純粋贈与への衝動です。純粋に贈与したい/されたい。それは決して満たされることがない。ここで、貨幣(等価)交換においても、消尽的な消費として表れます。




2)ポトラッチのオリエンタリズム


ここでバタイユにつなげることができるわけです。しかし最近の文化人類学研究でも言われているのは、ポトラッチの強調しすぎることのうさんくささです。たしかにポトラッチはあったのですが、実は西洋人にむけてのパフォーマンスであった面が多いということです。西洋研究者が喜ぶから行われた。もしかすると、見せてもらうために西洋研究者は謝礼を払ったのかもしれません。

このような面も考えると、現代と未開社会とつなぐ消尽−ポトラッチというバタイユ、あるいはボードリヤール的な過剰は一種のオリエンタリズムになっているという疑いがあるわけです。

ボクは、「犬に餌を与えること」を純粋贈与と言ったことはありません。ボクが言ったのは、自然の恵み、自然災害です。自然に下心はありません。だから人間には純粋贈与は不可能なのです。

しかしデリダも指摘したように、未開社会の贈与交換は美しい円環を構成しているわけではありません。そのはじめには自然の恵み、自然災害があるわけです。それは神からの贈与です。それが、人々に分配されることで贈与交換の美しい円環はなりたっている。ように見えるわけです。




3)物象化と消尽的消費による経済成長

基本構造


社会・政治・・・贈与交換(つながり)
経済・・・貨幣交換

貨幣交換の拡大


・物象化・・・社会・政治を浸食、マクドナルド化動物化
・消尽的消費・・・贈与を追いつめて、純粋贈与(享楽)化する。

物象化と消尽的消費は、心身二元論的に働きます。物象化は身体を追い込み、消尽的消費は精神を追い込みます。そしてともに、貨幣交換中心社会、すなわち資本主義社会を加速します。物象化は社会を合理化し効率を上げて(単純労働)の生産性を向上させる。消尽的消費は向上した生産性による商品を、終わりない欲望で吸収しつづけます。これらの傾向が、資本主義の終わりない成長を支えているのです。




4)「社会は等価交換を嫌う」


では、なぜ近代に貨幣(等価)交換が浮上したのか。これは歴史学の重大な問題で、一元的に語れないと言われています。ならば、なぜそれまで貨幣(等価)交換が浮上しなかったか、はまだ説明しやすいでしょう。

アリストテレスの物理学に関する有名なことばに、「自然は真空を嫌う」というのがありますが、ボクは「社会は等価交換を嫌う」と言いたいと思います。ようするに、贈与交換が雑草だとすれば、貨幣(等価)交換は温室栽培なのです。

質的に異質なものを量的に等価にして交換するというのは、いかに可能なのか。マルクスは的確に「命がけの飛躍」と呼びました。現代ならば市場が決めるということでしょう。ある商品の価格は需要と共有の市場の相場をもととに決定します。しかしそのような市場が発達してない時代に、どのように決定されるのか。

それは、社会的な関係でしょう。暴力、権力を持つ者が優位に交換を支配する。さらにいえば、交換の成立そのものを支配します。なぜなら略奪することも可能だからです。というか、略奪的な不平等な交換が基本となるでしょう。

だからこそ贈与交換が社会の基本になるのです。贈与交換は信頼のおける共同体内での交換です。そしてここでは等価交換は目指されません。あるときはある人に優位であれば、次回には他の人を優位にするというように、あえて等価にしないことで関係を延滞し、信頼を気付いていくのです。だから逆に等価にすることはとても失礼なことなのです。




5)略奪するか交換するか


まとめると、かつての社会は以下のような関係にありました

原始社会経済


外部(自然、他共同体)・・・純粋贈与/略奪
中間(共同体と共同体の間)・・・略奪するか、等価交換するか
内部(共同体内)・・・贈与交換

究極の外部としては自然の恵みのような神から純粋贈与自然災害のような純粋略奪があります。これらの偶然性から生活を保護し生存するために、贈与交換の共同体を形成する。

マルクスが貨幣交換は共同体と共同体の間に成立するといいましたが、山の共同体に対して海産物のように、共同体にないものを手に入れるための方法として考えられます。そしてこの中間域は、また略奪の領域でもあります。そこには絶えず交換するのか、略奪するのか、の選択があります。




6)国家統制市場から自由主義市場経済


このような理由から産業革命以後の自由主義が重視されるまで、市場は国家の統制の基にありました。国家は市場から税を調整し、価格統制も行いました。しかしまた産業革命前後とは、植民地政策や帝国主義の時代です。すなわち国家は国際的には交換の名の下に、合法的な略奪を行っていたのです。

しかし逆に言えば、このような市場の国家統制が、市場そのものを育てたと言えます。社会が都市化することで、知らない人と交換する必要がでてきます。贈与交換のような共同体のきずなをもとに交換することが限界になります。そして国家統制のもとで育った市場経済が、やがて自律的な自由主義市場経済へと発展していったのです。

外部 
 物質的な豊かさが防御壁となり自然の脅威(純粋贈与/略奪)は管理・利用する「資源」となる。
中間 
 略奪は国家治安によって排除される。
 都市化、貨幣交換の浮上→自由主義市場経済の発達
内部 
 経済的自由を妨げるものとして贈与交換は家族、友達など限定される。




7)リスク/チャンスというインセンティブ


市場経済が発展するためには、社会の都市化とともに重要であるのは、貨幣等価交換がもつリスクはチャンスです。自分の持つ商品が売れないリスクがあるが、大きな価値を生むかも知れないチャンスがあるという可能性。

さらにチャンスへの可能性が広げるのが、「資本交換」です。貨幣等価交換は、無時間的に等価交換を行われるのに対して、資本交換は、等価交換に時間を導入します。そして交換が延滞されることで、資本の増殖というリスクとチャンスそのものが目的化します。

しかしリスクとチャンスに賭けるというのは、一見、「社会は等価交換を嫌う」ことに反する享楽的な行為です。だから多くにおいて、人々は物質的に豊かな社会を背景に、物象化と消尽的消費というような、安定した生活を担保にしつづけるでしょう。

資本主義経済の成功の要因の一つは、誰でも平等なリスクとチャンスが開かれていることによって、人々が資本主義経済へ参加するインセンティブを向上させたことにあります。これが資本主義が自由主義へと向かう理由であり、そしてここで自由と平等は協約します。しかし実際にはリスクは平等ではなく、持たざる者は多くにおいて成功しません。




8)資本交換による贈与交換の回帰


貸す方にしてみれば、いくら利子率が大きくても返ってこなければ、意味がありません。だから貸し借りには「信用」が重要になります。ここに誰に貸すか、誰に貸さないか、という「贈与交換」が回帰します。

それは、かつての共同体のような「幸福」な贈与交換ではなく、誰と友になり、誰と敵になるかという、権力闘争をともなった擬似的な贈与交換です。そして当然、上流層と友になり、下流層と敵になるのです。すなわちこのような擬似的な贈与交換は、勝ち組が協力し合うことで徹底的に有利になります。やはり「社会は等価交換を嫌う」のです。なんとか「命ががけの飛躍」を避けて社会的信用、政治的権力によって「空間」を満たそうとするのです。

資本主義社会は、初期の商品資本主義から、国家や大商人がローリスクハイリターンをものにすることで富を独占してきました。それは産業資本主義、金融資本主義へと自由主義経済へと移ろうと基本的にかわりません。国家管理の機能は国家統制市場から自由主義市場へ移ろうとかわらず重要です。

そして上流層の巨大資本が次のチャンスを求めて投入されることで、イノベーションが進められました。イノベーションとは開発そのものではなく、様々な開発のうちのどれかに多くの資本が投下されることで事後的に確認されるものです。

外部 
 自然の脅威(純粋贈与/略奪)は、管理・利用する資源となる。
中間 
 都市化、貨幣交換の浮上→自由主義市場経済の発達
 略奪は国家治安によって排除される。
 国家・上流層は擬似贈与交換によって勝ち組を形成。資本を投入しつづける。
 下流層は物象化、消尽的消費。わずかなチャンスにインセンティブを高める。
内部 
 経済的自由を妨げるものとして、贈与交換は家族、友達など限定的に。


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