経済はマクロなコンテクストからミクロへのコンテクストの転倒によって動く

pikarrr2009-04-08

ケインズの欲望経済


ケインズ自由主義に対する保護政策ということで、保守的なイメージがあるが、機械論的な自由主義経済学に、「欲望」を導入した。自由主義では、供給(生産)サイドが順調に運営されれば、需要(消費)サイドがそれに合わせて育つというセイの法則が基本であった。供給(生産)サイドでは経営者などは営利をもとめて合理的に行為するのだから、国家による干渉は必要がなく、自由にすることがもっとも効率的な生産性を導く。

ここにおいて、自由主義経済の主体は功利主義的なものとなる。それに対して、ケインズは需要(消費)サイドの貨幣への「物神性(フェティシズム)」に注目する。需要サイドの人々、主に消費者は、貨幣への欲望をもっている。

それが顕著に表れるのが不況である。不況では人々は貨幣の流動性選好」から、貨幣を貯蓄しようする。このために市場の貨幣量が減少し、慢性的なインフレが起こる。このような傾向は長期的には、解消されるとしても、短期的には、政府による介入によって、解消しなければ直らない。だから経済への政府の干渉が必要になる。

すなわち人は、合理的な主体ではなく、欲望の主体であるために、自由経済への干渉し、補助しなければならないという、人間像の取り戻しである。

ここにフロイトの影響がある。精神分析を考えるにあたり、「快感原則」という功利主義的な主体像を導入する。しかし分析をすすめるうちに、「快感原則の彼岸」を見出す。人はあえて合理的でないようにふるまう。ケインズはまさにこのフロイトの欲望論の影響を受けている。




衝撃的事件と信用不安


不況について、信用不安、消費マインドの冷え込みなどの言葉が一般に使われるようになった。現在の不況においてもそうであるが、原因の本質が、貨幣の流動性選好であるかどうかは別にして、もはやケインズのいった需要サイドの影響を無視することはできない。

たとえば今回の原因がサブプライムローン問題であるとしても、このような衝撃的な不況現象のきっかけは、リーマン・ブラザーズの破綻である。この事件が世界の人々に衝撃を与えることで、経済活動がこれほどに停滞することになった。

しかしこれは不思議な現象である。もし自由主義経済学のいうような合理的な主体であれば、リーマン倒産そのものが与える経済的な影響は限定的であったはずである。しかし人々の心理的な面へ、すなわち信用不安として現れた。




「崖っぷち犬」と保健所で処理される犬


たとえばこのような集団心理を説明するのに、「崖っぷち犬」が良いだろう。崖の中腹で身動きがとれなくなった野良犬が発見される。連日、テレビで放映されて、人々はその動向を心配する。しかしこれは合理的に考えると、不思議な現象である。みなが「崖っぷち犬」を心配してある間も、何千匹の犬が保健所で処理されている。

保健所で処理される野良犬と、「崖っぷち犬」はなにが違うのだろうが。コンテクストが違うのである。保健所で処理される野良犬は「マクロなコンテクスト」であり、「崖っぷち犬」は運良く、「ミクロなコンテクスト」を手に入れた。

あるいは、海外支援の経済政策2兆円という政府の方針に対して、テレビでは派遣切りにあい路頭に迷う人がたた数万円あれば助かるのにと言っている。この違いもマクロなコンテクストとミクロなコンテクストの違いである。派遣切りの悲惨さはテレビ放映されたミクロなコンテクストとして紹介され、人々の不安をかき立てるが、そのような人々も政府の支援の一部というマクロなコンテクストの中では、全体の一部となる。




ミクロなコンテクストとマクロなコンテクスト


現代人はミクロなコンテクストとマクロなコンテクストに生きている。ミクロなコンテクストとは、身近な社会生活である。名前はなにで、どこに住み、親は誰で、友は誰で、どのような趣味をもち、どのように経験をしてきたか。すなわち代替不可能な私であって、繰り返せない経験であり、そこには自らが世界の中心という思い入れである。

マクロなコンテクストは、日本人の中の一人のように集団の一部である。たとえば税金の徴収には、法律にもとづいて徴収される。そこでは日本国民の一人という立場しかない。あるいは電車にのるとき、自動改札機をとおり、エレベータののり、列に並び、電車にのりこむ。このような集団の一部として整然とふるまう行為において、人はマクロなコンテクストに属している。

マクロなコンテクストは大量の人を管理するための環境との関係であらわれやすい。環境の設計において、人は集団としてあつかわれ、単体では統計的、功利主義的な「快感機械」として想定される。現代において、マクロなコンテクストは、「環境」そのものを構成し、人々を包囲している。また科学、そして経済学において人はマクロなコンテクストとして現れる。




不況と神経症


08年当初、アメリカでサブプライムローン問題が浮上し、アメリカ経済が心配されていたとき、実際に経済に影響を与え始めていたが、それはまだマクロなコンテクストであった。

しかしリーマン・ブラザーズが倒産したとき、ニュースを通して世界に配信されて、マクロなコンテクストはミクロなコンテクストへと転倒した。すなわち合理的に自分の身になにがおこるか以上に、身近な不安感として体感された。そしてその心理的な衝撃は、雪崩(カスケード)のように、世界に波及し、人々の経済活動を抑制し、世界経済は大不況へと崩れていった。

このような傾向は、精神分析のいう神経症に似ている。神経症もマクロなコンテクストからミクロなコンテクストへ転倒として見ることができる。先に、「崖っぷち犬」はただ「悲しい犬」という感情移入程度であったが、たとえばとてもナイーブな人がいて、毎日、保健所で処理されている犬たちというマクロなコンテクストがミクロなコンテクストへと転倒したらどうだろうか。「まさにいまこのときも犬が殺されつづけている」と気に病んで仕方がない。その痛みから離れられずに同調し続けるとき、その人はもはや健全な精神ではいられないだろう。

たしかに処理される犬、あるいは世界の貧しい人々、虐待される子供達、これらは問題であるし、人ごととして片づけることができないが、たえずミクロなコンテクストとして感じていては人は耐えられないだろう。すなわちマクロなコンテクストとは、世界は不完全で、不確実であることを受け流す役割がある。




経済成長とミクロコンテクストな熱狂


自由主義経済学は本質的に、功利主義的な主体によるマクロなコンテクストでのみ経済を考える。それに対して、実際の経済ではマクロなコンテクストからミクロなコンテクストの転倒は切り離せない。これがただの感情移入程度なら良いが、それが「雪崩(カスケード)現象」として、大きな流れを生み出す。それは信用不安という不況だけではなく、過剰信用という好況をも生み出す。

さらにいえば、継続的な経済成長そのものが不思議な現象である。経済成長の継続のためには、新たなイノベーションへの飛躍が必要である。飛躍は合理性からは出てこない。その飛躍にはマクロからミクロへのコンテクストの転倒が不可欠だろう。そこに新たな未来像をみるという想像力である。それは一人だけではなく、多くの人々がそのイノベーションの未来像へ「熱狂」するというミクロコンテクストな錯覚である。

しかしただ錯覚だけで、経済成長は起こらない。その熱狂が実際に、固定資本による環境として具現化するときに、マクロなコンテクストとして現れるときに長期的な経済成長は起こるのだろう。




不況対策と精神分析


では不況からの回復への短期的な対策は可能であるか。インフレ政策や、公共投資(財政政策)などのマクロなコンテクストへの作用とともに、そのような対策が効果があるというミクロなコンテクストとして安心感を与えることが重要になるだろう。

これはまた精神分析的ではないだろうか。現代において精神分析の効果は懐疑にさらされている。神経症の患者が長期的に治癒していく可能性があるとしても、いかにすれば短期に直す方法はあるのか。フロイト自身も最後まで悩んだ問題である。問題の一つは「転移」である。通常の医学のように患部がありそれを治療するのではなく、患部(患者)自体が学習し、治療そのもの(医者)の影響を受けて変化していく。

これはマネタリズムフリードマンケインズ経済学を批判した方法論に似ている。患者(経済)には自己治癒力があるのだから自由に任せた方がよい。無理に治療(介入)しようとすると、その治療(介入)に反応して余計に悪化する。

ここに精神分析的な心身二元論のメタファーを導入しよう。

ケインズ経済学・・・ミクロなコンテクスト重視、需要サイド、精神(欲望主体)、精神分析
マネタリズム・・・マクロなコンテクスト重視、共有サイド、身体(快感機械)、自然治癒


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