なぜトレードオフは楽観主義なのか 経済的思考と政治的思考

pikarrr2009-04-13

トレードオフというレトリック

トレードオフを否定する人々 池田信夫 blog http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/d9c725f16b6e76a74300fb5576c0d0ed


経済学は複数の目的のトレードオフの中から何を選択するかを考える学問だが、世の中にはそういう相対化を否定し、特定の目的がすべてに優先すると主張する人が多い。

特に多いのが、本書も指摘する「命は何よりも尊いというレトリックだ。建築基準法が過剰規制だというと、「人命のために企業活動が制約されるということが池田先生には許せないのだと思います」などとからんでくる弁護士がいる。彼らはこのように人命と企業活動のトレードオフを考えること自体を許さず、人命が絶対だと主張する。それなら自動車の生産はすべて禁止しなければならない。

本書に出てくる例には、法律家が多い。彼らがこういう幼児的な正義を振り回すのは偶然ではない。弁護士や検事にとっては敵か味方かしかなく、トレードオフは存在しないからだ。

トレードオフには、質的に異なる価値が比較できる同質の価値をもつという強い仮定(イデオロギー)が含まれている。だから「人権」などの特別な質を持つ社会倫理への適応は好まれない。

たとえばおぼれている妻と子供のうち、ひとりしか助けられなければどちらを助けるか、というようなトレードオフ問題はすでに、経済学的な文脈(コンテクスト)へ人を引き込んでいるレトリックである。そもそもそのような「限界」状況は現実にはない。そして比較できないものは比較できないし、比較(トレードオフ)できなければ問題解決できないわけでもなんでもない。

逆に様々な複雑な問題をトレードオフとして還元できるのは経済学が本質的にもつ楽観主義である。社会的な倫理問題をトレードオフと考えることは一つの経済的な手法ではあるが、そのような楽観主義に陥らずに、様々な思想の中で考え続けなければならない。デリダ風にいえば、考え続けることが現代の「正義」のあり方である。




楽観主義な経済的思考と戦略的な政治的思考


しかし考え続けることが「正義」であるということはナイーブであるかもしれない。このような相対主義への批判は決断をさけて答えを延滞し続けるだけだというものである。現実ではいままさに何らかの決断をしなければならない。

そのための実用的な方法の一つとして「裁判」がある。トレードオフ「経済」的思考なら、考え続けることは「社会(倫理)」的思考、そして裁判は「政治」的思考といえるだろう。

フーコーが考えるように政治とは、権力関係である。それぞれの「真理」かけて、様々な手法を駆使して戦う。弁護士とは政治的な人々である。彼らは自らからが提示する「真実」を受け入れられるように弁論する。しかしその「真実」は現場で行われた絶対的な「真実」であるとは限らない。

いわば、弁護士は「真実」を作り出すのだ。これを嘘つきであるということはできない。そもそも絶対的な真実などなく、それぞれがもつ認識(見方)によって変わる。だから真実は権力闘争の先に作られるものでしかない。このような戦略関係が政治的思考である。だから弁護士が「幼児的な正義」を振り回すとき、それはまさにレトリック、すなわち戦略なのである。

「純粋」な経済学の成果を政治家はいいように湾曲して政策としている」と、経済学者が政治家へ文句をいうのはどの国でもある基本的な構図である。そこにも同様な楽観主義な経済的思考と戦略的な政治的思考の差異が働いている。そして経済学者もびっくりなことに、なんと現実の経済は経済的よりも、政治的なのである。

認識がどのようなものかをほんとうに知ろうとしたら、哲学者の十八番であるような生活形態、生存形態、禁欲形態に近づいてもだめなのです。認識がどのようなものかをほんとうに知ろうと思うなら、その正体を知り、それを根源から、その製造からして把握しようとするなら、哲学者たちではなく、政治家たちに近づかなければならない。権力闘争の諸関係がどんなものかを理解するべきなのです。この権力闘争の関係においてのみ、諸事象が相互に、人間たちが相互に、憎み合い、闘い合い、互いを支配しようとし、互いの上に力の関係を及ぼそうとする、その仕方を通してのみ、認識がいったい何なのかを理解することができるのです。・・・つまりは、認識とはつねに、人間が身を置いているある戦略関係なのだということです。P29-31


「真理と裁判形態」 フーコー・コレクション〈6〉生政治・統治 (ISBN:4480089969)


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