「世界不況は誰の責任か」 NHKスペシャル「マネー資本主義」 

pikarrr2009-04-21

ミクロコンテクストな番組「マネー資本主義」 


NHKスペシャル「マネー資本主義 第1回 “暴走”はなぜ止められなかったのか 〜アメリ投資銀行の興亡〜 マネー資本主義」http://www.nhk.or.jp/special/onair/090419.html)をおもしろく見ました。

金融危機はなぜ起きたのか。巨大マネーはどのように膨張していったのか。マネー資本主義の主役として批判の的となっているのが、リーマンショックを起こした当事者でもある投資銀行である。

かつて企業への財務アドバイザー部門が中心だった投資銀行は、1970年以降の規制緩和と金融資本の膨張を背景に債券市場という新たな場で、次々と新手の金融商品や取引手法を編み出し、金融の枠組みそのものを変えていった。ソロモンブラザーズをはじめ、伝説的な企業が攻防を繰り返しながら、アメリカ経済、ひいては世界経済を牽引する回路を作り上げていく。「超レバレッジ「莫大な成功報酬」リスク管理の限界」など、サブプライム・ローンにつながる巨大なリスクを、投資銀行が激しい競争を繰り広げる中で自ら抱え込んでいったのである。投資銀行を変質させ、最後には破たんにまで追い詰めたターニングポイントはどこにあったのか。いま、その当事者たちが沈黙を破り、真相を語り始めた。

数々のヘッジファンドの産みの親となり、歴代アメリカ財務長官を輩出、バブル経済のけん引力となって最後は業界ごと消滅する投資銀行の劇的な攻防を描いていく。

多くにおいて、経済は「透明」に語られます。たとえばグローバリズムネオリベラル、フラット化、帝国などのように「マクロコンテクスト」で語るとまるで自然現象のように錯覚してしまいます。

このような番組で、プレイヤー、起こったことが語られることで、「ミクロコンテクスト」が現れます。結果的にマクロな大きな変化が起こったとしても、そこにはミクロな「誰か」の社会的、政治的な思惑があります。




ミクロコンテクストはくり返されない「歴史」を語る


逆に、ミクロで語りすぎると、問題点を特定の事件、人物に還元しすぎて「物語」を作ってしまうという問題はあるのです。それについては、こちらでも(債券・株・為替 中年金融マン ぐっちーさんの金持ちまっしぐら http://blog.goo.ne.jp/kitanotakeshi55/e/273ecafbc87bf4c6c9dce44f6963b8fe)手ひどく批判されています。しかし本質的にミクロコンテクストで語ることは「物語」を作ることですから、ある程度、恣意的あるのはしかたがないでしょう。

その意味で多面的に語られることが重要なのですが、マクロコンテクストとしてただグローバリズムネオリベラルが悪いという言説が広がる中で、このようなミクロコンテクストにかかわった人々の顔が見えることは、画期的ではないのでしょうか。

多くにおいて、マクロコンテクストそのものに原因があるということはないと思います。マクロコンテクストは、還元されたシステムとして語られます。だからもう一度同じ状況、今回ならばグローバリズムが進めば同じ問題が起こるということになります。だからグローバリズムそのものが悪い」という話になってしまいます。

それに対して、ミクロコンテクストは決して再現されない「歴史」を語ります。同じような状況においても無数の結果があるということ、今回ならば、各投資会社内外のそれぞれの思惑や政府との密接な関係などが、語られます。

たとえばソ連などの国家社会主義の崩壊は、マクロコンテクストでは社会主義そのものの欠陥として語られます。だからもう社会主義は終わったと。しかしミクロコンテクストとして人物や事件を語ることは、たまたまのそのときの問題でしかない、ということです。

どのようなマクロな言説も、実際にはミクロコンテクストの影響をうけるためにやってみなければわからない。それが「歴史」であるということです。