なぜケインズは計画経済を導入したのか ケインズの心身二元論 その2

pikarrr2009-05-22

心身二元論の罠

玄人筋の投資家や投機家の・・・たいていの者は、実際には、投資対象のその耐用期間全体にわたる期待収益に関して、すぐれた長期期待を形成することに意を用いるのではなく、たいていの場合は、評価の習慣的基礎の変化を、一般大衆にわずかばかり先んじて予測しようとするにすぎない。彼らが関心を寄せるのは、ある投資物件がそれを「本気で」購入しようとする人にとって、実際、いかなる価値をもつかということではなく、三ヶ月先、あるいは一年先に、群集心理の圧力の下で、市場がそれをいかほどに評価するか、ということである。

玄人筋の投資は新聞紙上の美人コンテクスト・・・になぞらえてみることもできよう。このようなコンテクストでは、それぞれの参加者は自分がいちばん美しいと思う顔を選ぶのではなく、他の参加者の心をもっとも捉えそうだと思われる顔を選ばなければならない。・・・われわれは、自分たちの知力を挙げて平均的意見が平均的意見だと見なしているものを予測するという、三次元まで到達している。中には、四次、五次、そしてもっとも高次の次元を実践している者もいる、と私は信じている。P213-216


雇用、利子および貨幣の一般理論」 ケインズ (ISBN:4003414519

ケインズ経済学においては、経済規模を決定するために投資量が大きな影響を持つ。そして投資量はその投資への期待収益によって決定される。そして投資が株式市場によって決定されることで、不安定になる。

そのことをケインズは「美人コンテクスト」で例えたのは有名である。しかし「四次、五次、そしてもっとも高次の次元」という予測は、すでに狂気に近づいている。いかに高次に考えようと不確実性に解はない。そこに過剰に解を求めようとするとき、それは神経症である。特に不況時のように先が読めず不確実性が高まったときには、現実にフリーズしてしまうだろう。

先にケインズの経済学とフロイト精神分析の近似をしめした。特にケインズは不況を分析したがまさに神経症と重なる。それ故にまたケインズ精神分析と同じ罠にはまっている疑いがある。

精神分析とは精神を分析するが、そこでは身体が欠落していると言われる。精神分析はその成り立ちから心身二元論の構造をもつ。そしてケインズの経済学にも「身体」が欠落している可能性があるのではないだろうか。




「豊富の中の貧困というパラドクス」


たとえばケインズのいう「豊富の中の貧困というパラドクス」について。このケインズの指摘では貧しい国ほど完全雇用に近くなるが、実際にはそのようなことはない。むしろ逆であることが多い。

ここで欠落しているのは、健全な経済「身体」である。先進国のような健全な身体では投資すれば、それが血肉となり蓄積されて、次の成長へ繋がる。そして経済が成長することで、富裕な社会でも「十分な投資機会」が生まれつづけ、所得が増えつづける。それに対して貧しい社会では往々にして経済「身体」は弱く、投資が身にならない。そのために投資が次の成長に繋がらず、「控えめな投機」も生まれず、雇用が増えない。

豊富の中の貧困というパラドクス・・・貧しい社会は生産物のはるかに大きな割合を消費しがちだが、ごく控えめの投資でも完全雇用を与えるには十分であろう。しかし富裕な社会は、豊かな成長の貯蓄性向を貧しい成員の雇用と両立させようとするなら、もっと十分な投資機会を見つけ出さなければならない。社会が潜在能力の面で富裕であっても、投機要因が弱ければ、有効需要の原理がはたらいて現実の産出量を減少させずにはおかず、最後には、その潜在的は富にもかかわらず、消費を上回る余剰が弱い投資誘因に見合う水準に減少するまで、貧しくなってしまうだろう。

もっと悪いことがある。富裕な社会では、限界消費性向が相対的に弱いだけではない。資本蓄積がすでにかなり進んでいるために、これ以上の投機機会は、利子率が十分な率で急降下するのではないかぎりますます魅力の乏しいものとなる。P44-45


雇用、利子および貨幣の一般理論」 ケインズ (ISBN:4003414519




健全な経済身体に健全な自由競争が宿る


経済を成長させる体力、それが経済「身体」の健全さである。世界の不確実性を生き抜くための方法論では、社会的な「身体」を鍛えることは基本である。人類史を長期的に見れば、自由主義経済の以前から技術・道具技術を蓄積し、生存を安定するよう発展してきた。

しかし「身体」を鍛えるために自由主義経済が優位であることを説明しない。身体の鍛え方には原始共産制封建社会社会主義など様々な形式がある。だがとにかく近代化において、自由主義経済が選ばれてきた。そして自由主義経済の「身体」が健全であるためには、効率的に作動するよう規律訓練された環境が必要である。

先にあげたように自由主義経済の「均衡」が作動することは歴史上でみてもそれほど簡単なことではない。十分に多くの自由な競争者が存在するという、高度な民主主義体制のもとで可能になる。そのためには学校教育によって規律訓練された人的資本や様々なインフラの整備などの固定資本が必要である。

貧しい社会と富裕社会の格差は、このような経済身体の健全さに大きく関係するだろう。たとえば貧しい社会の問題として言われるのが政府の腐敗である。先進国との独占的な関係によって一部の階級のみが富む。それによって健全な自由主義経済環境が生まれず、自由経済が進展しない。

だから健全な経済身体を作るためにはただ自由放任にするだけではだめで、自由主義環境を整備することが重要になる。「健全な経済身体に健全な自由競争が宿る」ともいえる。




「生政治」と健全な経済身体


経済でいう「精神」とは貨幣愛のことであり、「精神」の分析は貨幣という一元的な指標によって分析が比較的容易である。しかし経済の「身体」について分析は地域的、歴史的な複雑な分析が必要となる。

アダムスミスの国富論のはじめから、ヴェブレン、ガルブレイス・・・トフラーまで、あるいはこの不況時にも出版される膨大な経済関連の著書はこのような経済身体分析を補完していると言えるだろう。

このような中でフーコーの経済学分析としての「生政治」は、経済身体について分析した有用なものといえる。フーコーがその初期の研究において知の技術としての精神分析批判をおこなったことは偶然ではないだろう。

近代化の初期には軍隊訓練に近い規律訓練権力が導入され、その後健全化が進むと自由な経済を推進する生権力が重視する政策が進められた。生政治は計画経済と大きく違う。むしろ新自由主義政策に近く、計画を管理するのではなく、「自由であるように管理する」のだ。

そして経済身体を考慮して考えるとき、経済はそれほど大きく変化しているだろうか。たとえばこの不況によって情報化社会、グローバルな金融システム、環境管理技術、そして格差社会などの生政治の流れは変化することはないだろう。

19世紀に全面化してきた生政治は、簡単にいえば経済中心の世界に対応します。人口の増加に伴い、マクロに秩序があるということが発見され、それが明確に現れたのが経済(学)の分野です。そして国家群によって世界が成り立ち、その国家は国民という人口を中心にしたマクロ政策を考えます。これが生権力です。「神の見えざる手」という発展形態が、国家群という経済の促進装置として具現化されたのです。

生権力の原動力は、国家間の競争、国力(経済力、人員能力)の競争です。GDPなど、自国通貨の国際的なレートなどの経済指標から、ノーベル賞の数、オリンピックのメダルの数、定期的な国際学力試験の順位などを指標として、国民という全体を対象とした国家の政策が決定します。

そしてこのような生権力による国家戦略は、規律訓練権力として社会の末端まで実行されていきます。最近オリンピックで国力を世界に知らしめようとした中国では、オリンピックにあわせて、街の区画、景観から、公衆衛生、人々の道徳指導を進めました。それは単に観光客への見た目だけではなく、街を整備することで、中国の人々はその配置によって、新たな高度な規律が訓練されるのです。環境は人を作るのです。

このように生権力と規律訓練権力という「生政治」によって、資本主義社会は国家間の競争、それは均衡として発展してきたのです。このことからも、規律訓練が決して、画一的な訓練を作るものではないことがわかります。生政治のアウトプットは国力の向上させること、だから、規律訓練は個性的、創造的であるようにも訓練されます。


フーコーの政治歴史主義」 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20081008#p1




経済学には身体がない


たとえば悪名高きケインズ公共投資論、不況には「穴を掘って、また埋めるような仕事でも、失業手当を払うよりずっと景気対策に有効だ」ということは、数字(貨幣)計算上の乗数効果としては有効かも知れない。すなわち神経症(貨幣愛)治療においては有効かもしれない。

ケインズが画期的であるのは新古典派の「精神」も「身体」もない「神の姿」に「精神」を埋め込んだことにある。ただ「身体」は欠如のまま残された。それゆえに神経症のごとく不安定であり、公共の計画性に安定をもとめざるおえなかった、ということだろう。

しかし経済身体が欠落することは、ケインズに限らず経済学全般の特性といえる。そして身体分析の困難さから経済分析は自由主義のような楽観的か、ケインズのような悲観的かに大きく触れやすい。

いまや議論の糸を一本に撚り合わせることのできる地点に到達した。まず最初に、経済体系のどの要素を通常は所与とするのか、われわれの体系のどれが独立変数でどれが従属変数か、この点を明確にしておくのが有用であろう。

われわれが所与とするのは、利用可能な労働の現時点での熟練と量、利用可能な装備の現時点での質と量、現在の技術、競争の状態、消費者の嗜好と習慣、労働強度が違うときの不効用および監督や組織活動の不効用、それからもちろん国民所得の分配を決める諸力を始めとする社会構造、といっても、これらの要因を一定と仮定しているわけではなく、単に、この場所この文脈ではそれらが変化した場合の影響や帰結は考えない、あるいは考慮にいれない、とうことにすぎない。P345


雇用、利子および貨幣の一般理論」 ケインズ (ISBN:4003414519


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