「経済学者って何であんなに偉そうなんですか?」

pikarrr2009-05-27

「経済学者って何であんなに偉そうなんですか?」http://d.hatena.ne.jp/Yasuyuki-Iida/20090407あたりについて考えてみた。




1 現代の最大の災害が不況だから


この世界不況の原因は誰か。アメリカ証券業界幹部、グリンスパン、日本の低金利政策など言われるが、現実に不況で失業や派遣切りなどにあった人々には賠償してもらえるわけではなく、これだけ世界規模になると人災というよりももはや天災と考えるしかないだろう。

古くは自然災害、飢饉、そして戦争などの多くの災害は人類を襲ってきたが、現代の先進国において最大の災害は経済不況ではないだろうか。突然、経済が冷え込み、生活が苦しくなる。そして自殺が増える。

この最大の災害、経済不況について、「知っているだろう」人が経済学者である。この不況後に本屋に行けば、経済学者の書いた不況関連の書籍で溢れている。彼らは時代のマスター(「知っていると想定される主体」)なのであり、不安な日々を過ごす人々はみながマスターのお言葉を聞きたがっている。

精神分析の現場において発生する分析家とクライアントの関係には、転移という「過去の経験の写し」のような強い感情的つながりがありますが、ここで分析家に期待されるものに、ラカン「知っていると想定される主体」という非常に明快な表現を与えています。クライアント(神経症者、つまり普通の人)は「何か自分に関する重大なことで、かつ自分にはよくわからないもの」を抱えています。それは自分にはわからないけれど、誰かが知っているものです。「わたしについて、わたし以上に知っている人」と想定されるのが、「知っていると想定される主体」であり、転移の対象です。

よく考えてみると、このような関係性自体は分析の現場や診療所に限られたものではなく、例えば強い師弟関係、恋愛関係などでは常にこのような現象が起こっています。医師と患者の間には、精神科に限らず伝統的にこういう関係が期待されています(これがパターナリズムであるとして批判の対象にもなっているのですが)。良いとか悪いとかではなく、わたしたちの感情生活には常にそういう力動が働いている、ということです。


「決めてもらうこと、決めること、知っていると想定される主体」http://ish.relove.org/mt/archives/001007.html




2 現代の最重要な倫理を伝道する使命をもつから


現代は価値多様の時代であり、人々が共有する倫理も希薄になっているが、その中で人々が意識しているかにかかわらず、現代において広くはたらいている倫理がある。それは経済学者リカードによって提唱された「比較優位」である。

比較優位とは簡単にいえば、それぞれが自分の得意なこと(相手より機会費用の少ないこと)をすることで全体として豊かになるという考えである。相手と競争してどちらかが豊かになるゼロサムゲームではなく、Win-Winの関係を築くと言うことである。

現代社会では、人々はそれを意識しなくとも、分業に参加することで「比較優位」を実践し、協力し合い社会を豊かにすることが大前提となって自由主義活動を行っている。

しかし現実には多くにおいて弱肉強食な競争社会でもあることも事実である。だから比較優位を重視することが大きな括りとして人々が重視すべき現代の倫理である。そしてそれを意識しよりよく実践できるように考えることが経済学者の使命である。すなわち経済学者は現代の最重要な倫理を伝道する使命感をもったマスターである。




3 経済学者の意見は十人十色だから


「経済学者が10人あつまると11人の意見がある」といわれるように、経済学者の意見は十人十色であり、そしてほぼ間違うといっていいだろう。その理由を簡単にいえば、経済とは歴史であるからだ。

たとえば歴史上の出来事をどのように解釈するかはとてもむずかしい問題である。教科書にのるような歴史でさえもある種のイデオロギー的な解釈がなされていて、時に歴史認識問題を生む。ある見方では英雄であるが別の見方では悪党というのはよくあることだろう。ましてやこれからなにが起こるかという歴史予測など当たらないことが普通であると、誰もが思っているだろう。

経済学は歴史の中に非時間的な経済法則を見出そうとする試みである。確かに経済には貨幣価値を基本とした量的なデータがあり、それをもとに様々な数学的な処理が可能である。しかし逆に言えば数量化できる範囲が経済学の限界であって、それは歴史のほんの一部でしかない。そしてまたその数量化する方法自体がすでに一つのイデオロギー的解釈によってなされている。このようなに考えると、経済学という歴史分析がほぼ間違うのはそれほどおかしなことではない

それでも歴史分析に意味あるように経済分析も意味がある。むしろ十人十色にこそ意味があるといえる。現代の最大の災害が不況であるから、ある時は自由主義保護主義などのように経済学は国家方針を決定へ大きな影響あたえる。

いかなる純粋な数量経済学も必ず歴史−政治経済学であり、各派閥をかけて経済学マスターたちの熱い死闘を繰り広げている。

人口というパースペクティブ、人口に固有の現象が持つ現実は、家族モデルを決定的に遠ざけ、経済というこの概念を中心に違うものの上に移動させることを可能にするでしょう。・・・統計学が少しずつ発見し明らかにしていくのは、人口には固有の規則性がある、ということなのです。・・・人口はその集合状態に固有な効果をもつものであって、・・・家族という現象に還元することができない、ということなのです。統計学が教えるのはまた、人口は、その移動や行動様式や活動によって、固有の経済的な効果を持っているということです。

統治の知の成立は、広義の人口をめぐるあらゆるプロセスについての知、まさしく人々が「経済学」と呼ぶ知の成立と絶対に切り離しえない。・・・統治の技法から政治学への移行、主権の諸構造に支配された体制から統治=政府の諸技術に支配された体制への移行は、十八世紀に、人口をめぐって、したがって、政治経済学の誕生をめぐって行われるのです。P261-268 


「統治性」 「フーコー・コレクション〈6〉生政治・統治」 (ISBN:4480089969)


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