なぜ金銭経済から逃れられないのか 非金銭経済の可能性 その1

pikarrr2009-06-01

非金銭経済から金銭経済へ


アルビン・トフラーは1980年の著書「第三の波」ISBN:4122009537)の中で消費者が生産に加わることを、消費者(consumer)と生産者(producer)を組み合わせた造語としてプロシューマー、生産消費者(prosumer)と呼んだ。

生産消費者(プロシューマー)はなにも特別な人ではなく、炊事洗濯掃除などの家事仕事から自己学習、趣味など、「販売や交換のためではなく、自分で使うためか満足を得るために財やサービスを作り出す」という誰もが普段行っている非金銭経済活動である。

産業革命前、ほとんどの人々は農耕によって生活を立てていた。人々はみずから生産手段(農業)によって自給自足していた。また多くにおいて協力が必要であり、密接な地域共同体に帰属していた。これらすべて貨幣を介さない非金銭経済である。

いまのような金銭経済が中心になるのは、産業革命以降に生産が分業体制になってからである。人々は労働力を企業に売り、企業は多くの労働力を分業体制に配置して、効率よく商品を生産する。そして労働者は生活に必要なものを労働力と引き替えた貨幣によって購入する。

労働者は自らの生産手段を持たないために、生きていくためにの必要なもののほとんどは商品として市場になければならないが、分業体制によって経済全体の生産性は飛躍的に向上し、有り余る商品が供給されるようになる。すなわち金銭経済はそれまでの非金銭経済を取り込むことで成長した。




非金銭経済を解体する金銭経済のどん欲さ


たとえば食生活について。非金銭経済では自ら育てた作物を自ら調理して食べる。金銭経済になると食材を購入する。最初、調理は主婦の生産消費活動だっただろうが、金銭経済は主婦の仕事を楽にする電気炊飯器、電子レンジなどを提供する、あるいはレストラン、スーパーの総菜、お弁当など食事そのものを提供する。

それによって主婦は家庭の生産消費活動から開放されるが、必要な貨幣を稼ぐために金銭経済へ参加(社会進出)していく。このように企業の生産活動は非金銭経済の生産消費活動をどん欲により込んでいく。

現代はもはや貨幣で買えないものがないのではないかと思える金銭社会になったが、そのどん欲さは時に滑稽である。たとえば家電製品の多くは過剰な機能がついていてほとんどの人が使いこなせないが、この過剰さも非金銭経済を取り込むどん欲さから来ている。ウォシュレットは便利ではあるが、自動で便座が開閉する機能は必要なのだろうか。便座の開け閉めという生産消費活動まで取り込むどん欲さには驚いてしまう。(笑)

あるいは掃除道具はなんと充実していることか。掃除道具はキッチン、風呂場、トイレ、畳、フローリングなどで別々に商品化されて、どこが違うのか洗剤も個別に商品化されている。

もはや消費そのものが娯楽になっているので、ドラッグストアーなどにいくと、その多様さに驚く。金銭経済は単に非金銭経済を取り込むだけではなく、有り余る力から新たな活動範囲(市場)を生み出すことで成長しつづけている。




ケインズ「倹約のパラドクス」


このような金銭経済の特徴を明確に描いたのが、ケインズ経済学の有効需要である。ここには「倹約のパラドクス」がある。ケインズ経済学によると、より多く消費することで有効需要が増大し、それに見合う生産量、そして雇用量を生み出される。だから倹約して消費を抑えることは、回り回って経済を停滞させ、所得を減らし、失業を増やすことになる。極端にいえば大いに無駄遣いすべきと言うことになる。

しかしまたケインズの経済学では、豊かさに対する危険も指摘される。それまでの古典派経済学では供給に対する需要、働きたい人に対する雇用が「均衡」されるという完全雇用な理想状態を前提している。

それに対してケインズ経済学では失業が存在する事実を説明する。企業側と労働者の雇用条件の交渉が不平等であることや、あるいは「富裕の中の貧困」と言われる経済全体が豊かになるほどに(投資が不足し)失業者、貧困者が生まれる構造を説明する。

全体が豊かになっても誰もが貧困になる可能性があるということは、日頃の備えとして貯蓄し倹約する必要があるが、それによって全体として失業、貧困を増やすというパラドクスがある。




倹約は生産消費活動力を向上させる


「富裕の中の貧困」が危険であるのは、金銭経済が発展した社会では人々は貨幣依存を高めているからだある。生活が商品購入によって支えられているために、仮に失業して収入がなくなるということは生きていくすべを失うことに等しい。だから倹約はそのときのためにお金を貯蓄しておくこととともに、貨幣に依存しない生産消費活動力を鍛える意味があるだろう。

経済学は国民総生産(GDP)によって評価するように金銭経済しか扱わないが、トフラーが指摘するには、「富」にはそれと同じだけの非金銭経済が存在する。日頃の倹約による「生活力」を身につけることは、非金銭経済における生産性を向上させておくという「富」を増やすことを意味する。

たとえば社会的な人間関係を大切にする、仕事とは関係がない技術を学習する、あるいは体を鍛える、さらには家族を増やすなども、非金銭経済の生産消費活動力=生活力の生産性を向上させる行為である。富には給料、貯蓄など金銭経済だけではなく、非金銭経済における生産技術力も含まれる。




貨幣依存による個人の孤立、弱体化


貨幣依存社会の問題は、貧困になったときだけではない。生産消費活動力=生活力の低下は、豊かさの中でも問題を生んでいる。多くの社会的な問題は、生活力を身につけたり、他者との交渉するなど時間と手間がかかるものである。しかし貨幣依存社会ではお金を払うことで問題を解決されるために、手間隙かからずに速やかに解決される。そのために生活力や社会関係が身につかず、個人が孤立し、弱体する傾向がある。

たとえば軽い病気になった場合には、かつては家庭内で伝承された知恵や、お年寄りに相談することによって対処された。貧しいということもあったのだろうが、医者にいかずとも治療が行われた。最近、医者不足が問題になっているが、その要因の一つとして軽い症状でも医者に行ったり、救急車を呼んだりすることがあげられている。ここには貨幣依存、生産消費力の低下がある。

さらにはいじめやキレるなどの様々な社会関係の軋轢の問題も、人々の生活力に基づく、社会交渉力が低下していることが理由の一つと考えられる。あるいはモンスターと言われる現象は、孤立、弱体化した個人が不安に追い込まれやすいことを背景にしているのではないだろうか。




経済成長から逃れられない


もはや非金銭経済が金銭経済の隅々まで解体していく流れは現代における大きな潮流といえるだろう。無駄遣いとまでは言わなくても、大量消費し、大量生産することで、経済を絶えず成長させるという有効需要から逃れることはできない。環境問題について警告されようが、このサイクルを回し続けることが、貨幣依存した人々にとっては目の前の生死に関わっているのだから。

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