なぜ「第三の波」で金銭経済の勢いは増すのか 非金銭経済の可能性 その3 

pikarrr2009-06-03

「資本主義活動」という社会的寄生物


ブローデルは大著「物質文明・経済・資本主義」の15‐18世紀初期資本主義社会の歴史研究の中で資本主義経済を3階立の建物に例えた。

3階 資本主義活動・・・投機、証券、銀行
2階 経済生活・・・「自動調整」市場、市・大市
1階 物質生活・・・自給自足

産業が発達する前、農耕が主流であり人々は自給自足=「物質生活」によって生活していた。これと並行して貨幣・商品交換による市、大市=「経済生活」はすでに都市をネットワーク的に結びつけ、生活を支えていた。そこでは自由主義経済としての(需要と供給の)均衡による価格自動調整が働いていたのである。

ここにはトフラーの「第一の波」「第二の波」などのように産業革命を基点とした非金銭経済と金銭経済の対立構図はない。非金銭経済の「物質生活」と金銭経済の「経済生活」は強調しつつ人々の「自然の」生活を支えていたと考えられている。

ブローデルが対立構図を見出すのは「経済生活」「資本主義活動」の間である。「資本主義活動」とは資本家や銀行などの投資活動である。「資本主義活動」は遠隔地交易や農地革命さらに産業革命など、国家権力と深く結びつきつつ投資による利潤をむさぼる「社会的寄生物」であったという。

理論的モデルと観察結果のこのつき合わせにおいて、私が始終気付いたのは、通常のそしてしばしば慣習的な(十八世紀では、自然のと呼ばれたであろう)交換経済(経済生活)と、より上位の、精緻をきわめた(十八世紀では、人工的なと呼ばれたであろう)経済(資本主義活動)との絶えざる対立であった。・・・

また市場経済の諸法則は、ある水準においては古典経済学が記述するとおりの姿で現われるが、より高度の領域・計算と投機の領域においては、自由競争というその特徴的な形態が見られるのがはるかに稀であることも。影の部分、逆光の部分、秘義に通じた者の活動の領域がそこからはじまるのであり、私は、それが資本主義という語によって理解しうるものの根底にあるのだと信じている。そして資本主義とは(交換の基礎を、たがいに求め合う需要におくのと同程度あるいはそれ以上に、力関係におく)権力の蓄積であり、避けられぬものか否かは別にして、他に多くあるのと同様な一つの社会的寄生物なのである。P2-3


「物質文明・経済・資本主義―15-18世紀 交換のはたらき」 ブローデル (ISBN:462202053X




投資が金銭活動の原動力


ブローデル「資本主義活動」の特徴は、市場秩序が未発達であったことにもよるだろうが、現代においても「金融資本主義」による独占として分析されるものに通じる。さらにはケインズ有効需要で注目したのは、「倹約のパラドクス」であるよりも投資の影響だった。

ケインズが指摘するのは株式投資である。投資家は事業とは関係なく、目先の利潤を求めて短期的に取引することで有効需要が不安定になり、人々の所得、雇用が大きく影響を受けてしまうと考える。これらに共通するのは消費は多くが生活に根ざしているのに対して、投資は生活から切りはなされた資金であり、金で金を増やすことこそ目的にすることの弊害である。

さらには投資においては、安定化した金銭経済よりも成長過程の方がリターンが大きい。あるいは開拓地(フロンティア)はまだ秩序形成が未熟である分、権力がものを言うだろう。ケインズは投資家の、リスクを恐れずリターンを求めるどん欲を血気(アニマルスピリット)と呼んだ。

われわれの積極的活動の大部分は、道徳的なものであれ、快楽的なものであれ、あるいは経済的なものであれ、とにかく数学的期待値のごときに依存するよりは、むしろおのずと沸きあがる楽観に左右される・・・その決意のおそらく大部分は、ひとえに血気(アニマル・スピリッツ)と呼ばれる、不活動よりは活動に駆り立てる人間の本来の衝動の結果として行われるのであって、数量化された利得に数量化された確率を掛けた加重平均の結果として行われるのではない。企業が設立趣意書の口上に依ってたいてい動いているように見えたとしても、それは表向きにすぎない。たとえその口上が腹蔵のない誠実なものであったとしても、そうなのである。企業活動の将来利得の正確な計算にもとづくものでないのは、南極探検の場合と大差ない。P223-224


雇用、利子および貨幣の一般理論 ケインズ (ISBN:4003414519




「第三の波」により金銭経済の勢いは増した


トフラーがいうように「第三の波」において金銭経済と非金銭経済が協調するのではなく、現代においてネオリベラリズム新自由主義)などと言われるように、金銭経済はさらに躍進しているように思う。

たとえば最近の資本投資の「寄生」先の代表はグローバル市場と金融市場だろう。これらは「第三の波」の情報技術を大いに活用して成功している。グローバリズムの本質は、有望な後進国へ投資することで高度成長期を起こして、高い利潤を生み出すことである。BRICsなど有望は後進国へと投資マネーが流れ込んでいる。

金融市場とは様々な対象を金融商品化することで投資対象とする。投資そのものを商品化することで自己増殖するバブルな市場である。これには先進国で金が余っているが投資先がないということから来ている面があるだろう。

トフラーは「第三の波」では金銭経済の一部を「生産消費活動の復活」によって非金銭経済が取り戻すだろうと考えたが、そもそも金銭経済の本質は非金銭経済と接する生活のレベルにあるわけではなく、「資本主義活動」という投資のレベルでどん欲に推進されている。

資本主義の総合的な歴史にとって基本的な、その特質を強調しておこう。すべての試練に耐えるその柔軟性、その変形と適応の能力である。私が考えるように、十三世紀のイタリアから今日の西洋まで、資本主義がある一体性を持っているとすれば、まず第一に、資本主義を位置づけ、それを観察すべきなのは、この特質のあらわれにおいてである。・・・

全体的な経済の規模において、資本主義が成長するについて、商品から金融へ、そして産業へと資本主義が順次移行した−成熟した段階、産業の段階のみが「真の」資本主義に対応する−というような単純な見方はつつしまなければならない。商業的と言われる段階においても、産業的と言われる段階においても資本主義はその基本的特質として、重大な危機あるいは利潤率の目立った減少の際には、ほとんど瞬時に一つの形態から他の形態へ、一つの部門から他の部門へと移行する能力を持っていたのである。P179-180


「物質文明・経済・資本主義―15-18世紀 交換のはたらき2」 フェルナン・ブローデル (ISBN:4622020548




創造消費者は生活の糧を金銭経済で調達する


さらに先に示したように「第三の波」によってネット上に現れたのは生産消費者ではなく、創造消費者である。彼らは非金銭「社会」という別社会の住人である。そして生活の糧を金銭経済の生産活動に従事することでえている。彼らは金銭経済社会で生活するための「経済生活」を行い、ネット上で「社会生活」を行うというように分離して生きている。

現代の金銭経済が生み出した生産性の高さに依存して、僅かな労働で少しでも多くの商品を得ようとする。それによってネット上の非金銭「社会」での創造消費者として時間を生きることができる。だから彼らは生活の糧においていままで以上に金銭経済=貨幣依存した人々であるといえるだろう。

創造消費者に見られる経済と社会の分断を生きることは目新しいものだろうか。なぜデカルト心身二元論が近代化の象徴とされるのか。精神=社会における真の自分、身体=経済機械。このように「第二の波」によって分断された近代的な心身を「第三の波」は継承し拡張している。
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*1:参考:なぜブローデルは透明な市場を夢見るのか フェルナン・ブローデル「交換のはたらき」その1 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20090215#p1

*2:なぜ産業資本主義は無限に利潤を生み出すのか フェルナン・ブローデル「交換のはたらき」その2 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20090220#p1

*3:画像元 http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/200711/article_4.html