Googleはトフラーの夢を実現するか(改訂) 非金銭経済の可能性 その4
「政治」は経済と社会の分断をつなぐ
創造消費者に見られるのは「経済と社会の分断」である。このように経済と社会の分断を生きることは目新しいものではない。近代化において、自由主義経済が離陸(テイクオフ)することで「社会」が切り離なされた。そして「第三の波」においても近代の分断は継承されているということだ。
トフラーは「経済」を中心に語り「社会」については積極的に語られない。ここには「経済」における分配が成功すれば、それにともない「社会」も同様に豊かになるだろうことが暗黙に前提とされている。このような経済重視はアダム・スミス以来の保守派(中道右派・(新)自由主義)がもつ特徴だろう。
それに対して、社会主義(左派)は「経済」と「社会」の分断を疎外論として問題視してきた。だから「いかに分断された経済と社会を調和されるか」ということが重要である。左派は共産主義国家として現実化されそして失敗したが、このような根本的な左派議論はリベラル(中道左派)として現代も継承されている。たとえばネット社会においてもグローバルビレッジ、クリエイティブコモンズなどで繰り返し回帰する。
このように「経済」と「社会」の分断を繋ぐのは「政治の領域」である。いまや金銭経済が中心であることはかわりがない。保守派(中道右派)は金銭経済の自由な活動を重視し、そこに社会はついてくると考える。リベラル(中道左派)は金銭経済に任せることはできず社会側の積極的な活動が必要であると考える。
「第三の波」における経済と社会の分断
金銭経済・・・さらに活性化(非金銭経済(生産消費者)の利用etc)
−−−− 分断 −−− 「政治」の領域 −−−−
非金銭「社会」・・・創造消費者の誕生。経済よりも社会を重視。
Googleのリベラル思考
現代においていかに経済と社会を繋ぐかを考えるときに注目すべきはGoogleだろう。Googleは金銭経済と非金銭「社会」の間に立ち位置を占めることで成功している。
ネット上の非金銭「社会」の有象無象の情報を整理することで「価値ある」ものとして提供する。あるいは逆に実社会の金銭経済の情報資源を取り込みネット上で無償提供する。または「アドセンス」では非金銭「社会」の「関心」を金銭経済の貨幣価値へ変換する。これらによって経済と社会を繋ぐ役目を果たしている。
Googleの新しさは、経済と社会の接合を「「人間の介在」なしに自動的に事を成していく」、すなわち「アーキテクチャ」によって行おうということである。
たとえばG-mailは無料である分、そのメールの内容にあわせた広告が挿入されるが、メールの内容を見ることはプライベートの侵害ではないかと問題視されたとき、「人間の介在なしに自動的に」アーキテクチャによって行っているので侵害ではないと反論した。そこに「政治」がないことで権力の発生をさけることができる。
またGoogleは金銭経済からのネット上に無料で情報を提供するという「知の分散化」、あるいは「アドセンス」は非金銭「社会」での創造消費者へ「富を分配」などにリベラルな思考を見ることができるだろう。
「グーグルは検索エンジンの会社」というのが一般的なグーグル理解であるが、実際にグーグルが行っているのは、知の世界の秩序を再編成することである。
権威ある学者の言説を重視すべきだとか、一流の新聞社や出版社のお墨付きがついた解説の価値が高いとか、そういったこれまでの常識をグーグルはすべて消し去り、「世界中に散在し日に日に増殖する無数のウェブサイトが、ある知についてどう評価するか」というたった一つの基準で、グーグルはすべての知を再編成しようとする。ウェブサイト相互に張り巡らされるリンクの関係を分析する仕組みが、グーグルの生命線たるページランク・アルゴリズムなのである。リンクという民意だけに依存して地を再編成するから「民主主義」。P53-54
サイト運営者は「アドセンス」に無料登録し、そのウェブサイトを粛々と続けて集約するだけで、月々の小遣い稼ぎができるようになるのだ。
リアル世界における「富の分配」は、巨大組織を頂点とした階層構造によって行われるのが基本であるが、その分配が末端まであまねく行き渡らないところに限界がある。しかし、いかに対象が厖大であれ、インターネットにつないでさえいれば、その対象は同時にきめ細かく低コストで処理可能である。グーグルはそんなインターネットの本質を具現化することで、リアル世界における「富の分配」メカニズムの限界を超えようとしている。上から下へどっとカネを流して大雑把に末端を潤す仕組みに代えて、末端に一人一人に向けて、貢献に応じてきめ細かくカネを流す仕組みを作ろうとしている。74-77
しかし現実問題として「アドセンス」によって収入を得るためには相当の労働が必要である。労働に対する収入、そして長期的な安定性を考えると、バイトで金を稼ぎ、余った時間で気楽にネットを楽しむ方がいい、というのは一般的な見解ではないだろうか。
アーキテクチャによる管理では金銭経済と非金銭「社会」は分断を維持しつつ、活発な活動を行うことで気が付かないうちにアーキテクチャによって調整されている。リベラルとしては弱く、保守派(新自由主義)の楽観主義と高い親和性を持つと言えるだろう。
また「アーキテクチャ」による政治の透明化については、リベラル側からは強い警告がある。有名なものがレッシグの「コードは法である」ことからは逃れないだろうということだ。またアーキテクチャが透明な環境として受け入れられつつ強い権力を発揮することを東浩紀は「環境管理権力」として警告している。
現実にGoogleEarthのプライバシーの問題や、あるいは「Google村八分」などの問題、そして中国政府による検閲を受け入れている事態も起こっている。
結局のところ、Googleアーキテクチャのスタンスは、あくまで物言わぬ道具(武器)であり、リベラルな生産消費者となるか、保守派の創造消費者となるか、は使う人次第ということだろう。
たとえば、ポルノや麻薬売買など、特定の情報を排除するフィルタリング機能を実装したブラウザを導入すれば、利用者にはそれら「悪質」な情報は完全に見えなくなってしまう。これは、従来の法や規範よりもはるかに完成度が高く、しかも反発を招きにくい規制である。そして情報化が進むとともに、それらネットワークのアーキテクチャは、実体世界の生活にも大きな影響を与えるようになっていく。このような状況を受けて、レッシグはいまコードは「権力」だと述べている。
・・・レッシグは『CODE』の補遺で、アーキテクチャは「主観化がまったくなくても制約できる」のが特徴だと述べていた。「アーキテクチャ上の制約は、その対象者がその存在を知ろうと知るまいと機能するけれど、法や規範は、その対象者がその存在についてある程度知っていないと機能しない」。ここで「アーキテクチャ上の制約」と呼ばれているものの特徴は、前述の(環境)管理型権力の特徴にきわめて近い。