なぜ梅田望夫は「日本のWebは「残念」」と言ったのか 非金銭経済の可能性 その5

pikarrr2009-06-09

日本のWebは「残念」 


最近、ブログ界隈で梅田望夫「日本のWebは「残念」発言が話題になっている。ここに先の「リベラル(中道左派)な生産消費者」「保守化(中道右派)した創造消費者」の差異を見ることができるのではないだろうか。

アメリカのネット文化を支えるのはリベラルな生産消費者であり、日本のネット文化は保守化した創造消費者である。リベラルな梅田は日本のネット文化の保守傾向を「残念」と呼ぶ。

日本のWebは「残念」 梅田望夫さんに聞く http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0906/01/news045.html


英語圏の空間というのは、学術論文が全部あるというところも含めて、知に関する最高峰の人たちが知をオープン化しているという現実もあるし。途上国援助みたいな文脈で教育コンテンツの充実みたいなのも圧倒的だし。頑張ってプロになって生計を立てるための、学習の高速道路みたいなのもあれば、登竜門を用意する会社もあったり。そういうことが次々起きているわけです。SNSの使われ方も全然違うし。もっと人生にとって必要なインフラみたいなものになってるわけ。日本のWebは、自分を高めるためのインフラになっていない

ネットはすごくニュートラルなものでしょ。道具だから。上から下まで正規分布みたいになるよね、普通。ニュートラルなものって。ニュートラルなものって相対化されるじゃない。いいことから悪いことまで全部出てきて、悪いところは相対化されるじゃない。いいとこもあれば悪いところもあるよね。日本のネット空間もそうなんだけど。その比率がずいぶん違う感じがするなあ。

日本のサブカルチャー領域でのWeb文化の隆盛は十分に分かっていて、敬意を表しています。だから、今さらそういう事例について議論しても、日本のWeb文化が特に変化したとは思えないんだよね。ただ、素晴らしい能力の増幅器たるネットが、サブカルチャー領域以外ではほとんど使わない、“上の人”が隠れて表に出てこない、という日本の現実に対して残念だという思いはあります。




iPhoneは「武器」である


このようなIT産業のリベラルな思考はパソコンからつづくものである。かつてコンピュータは大型で高価で限られた資源であったが、マニア達がガレージでパーソナルコンピューターを開発し世界へ広まっていった。ここには「知の分散化、開放」という成功したリベラル(アメリカ左派)像がある。

いまではビジネスユースを中心に世界中に広まったパソコンであるが、いまだにリベラルなイメージは残っている。その象徴がアップルだろう。アップルユーザーは製品の使用価値以上に製品に強い思い入れを持つ。その最近の例がiPhoneである。アメリカ人にとってiPhoneは単なるコミュニケーションツールである以上に、知を分散・開放するモバイルなプラットフォームであり、「大きな権力」に対する「武器」なのである。




ケータイの普及と日本のネットの保守化


日本のパソコン、ネット文化も最初はアメリカからリベラルなイメージを受けて輸入された。たとえば2ちゃんねるもその始めには知識人が多く参加して、高度に生産的な議論が行われていたという神話がある。あるいはいまもブログの一部ではリベラルなイメージが保持されているだろう。

それが大きくかわってきた一つは、日本でのケータイの普及だろう。ケータイは世界に先駆けて日本で爆発的に普及した。そして最初に女子高生のコミュニケーションツールとして流行ったといわれるようにそこにリベラルなイメージはまったくなく、「保守」のイメージをもって受け入れられた。

そしてケータイを通して保守ユーザーが上陸し始めたことで、日本に残っていたリベラルな空気は吹き飛ばされてしまった。もはや日本でiPhoneに熱狂するのは旧世代のユーザーのみである。




企業中心社会と保守思考


日本人の保守思考といっても、リベラルに対抗したネットウヨのような政治的な意味を持つのは一部である。そもそもネットウヨ自体も政治的な意味をもつか疑問であるが。

日本の保守思考を支えるのは企業中心社会である。日本人は「市民」である前に企業に帰属する生産者(の家族)である。政治的な発言は企業を介して政府へ行われる、というか政府と企業がうまい具合に調整し、企業に帰属する生産者たちに悪いようにはしないだろうという漠然とした信頼がある。

ここでいう企業とは自分が働く会社である以上に「企業中心社会」である。だから重要であるのは「企業社会」への帰属であり、継続したコミュニケーションという「社会」へのつながりの維持である。

たとえばケータイはせっかく日本で発達したのに世界標準化できずにガラパゴス化したとして、日本企業の閉鎖性を示す失敗例としてよくあげられる。確かにその理由も大きいだろうが、海外において携帯電話はモバイルなパソコンとして受け止められているために、日本のケータイがもつ独特な保守思考が受け入れられなかったのではないだろうか。




サイバーリバタリアは経済性をめざす


梅田はこのような日本のネット文化の保守化、「社会性」重視にいらだっている。金銭経済に充足しつつつながり遊ぶ保守思考の創造消費者ではなく、金銭経済に依存しないインフラを自立的に構築しようとするリベラルな生産消費者であれ。「大きな権力に取り込まれるな。武器をもて。」と。

このようなリベラルな「説教」は日本では退屈なものとなっている。このような単純な構図にはすでに「人生にとって必要なインフラみたいなもの」というような経済的な価値が固定されているからだ。

現代の金銭経済の潮流において、保守思考の創造消費者とリベラルな生産消費者がともに金銭経済を基本とするが、むしろ「経済性」を重視する生産消費者の方が金銭経済との関係性が深い。

レッシグなどのより左側のリベラルは、梅田のような「サイバーリバタリアニズムなスタンスを、楽観的な「価値中立」信仰であると批判している。さらにはネット上のアーキテクチャの特性は、Ver.1、2、3・・・と「経済性」を求めて容易に書き換えられていくことにある。

六〇年代に始まり、九〇年代に爆発した情報技術革命の原動力になったのは、ハッカーたちのリバタリアニズムだった。そこではコンピュータやネットワークは、個人の自由を支援する強力なツールだと信じられた。

・・・二〇世紀末の情報技術革命を支えた自由至上主義(サイバーリバタリアニズム)に注目した。情報技術が自由を拡大するというハッカーの信念は、いまや現実に裏切られている。その理由は、彼らが技術を価値中立的に捉えていたからである。特定のアーキテクチャを採用すれば特定の自由しか実現されない。


「情報自由論」 東浩紀 http://www.hajou.org/infoliberalism/


*1