まだエヴァンゲリオンを語ることはできるのだろうか 映画「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」

pikarrr2009-07-19

ファリックガールズの殺害


映画ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破を見てきました。「序」も面白かったが、それ以上に興奮した。見終わったあとの爽快感。でもなにかが違うぞ。エヴァ見た後に感じる特有のむかつき、イライラがないのだ。

エヴァンゲリオンセカイ系の代表作の一つとして言われてきた。セカイ系の一番の特徴は現実界(言葉なき不安)の迫り出し」である。物語があり好敵手がいるわけではなく、敵か味方かもわからず漠然とした不安が迫ってくる。そしてセカイ系と言われる物語の多くはこの「言葉なき不安」と主人公の生活をつなぐ点に神聖な戦闘美少女がいる。斉藤環「ファリックガール(ペニスをもつ少女)」と呼んだ。そして美少女の無垢さが「言葉なき不安」を敵として、そして物語として成立させる。主人公は彼女とつながることでセカイの中心にいることができる。

エヴァンゲリオンのファリックガールと言えば、綾波レイであり、アスカ・ラングレーである。しかし今回のヱヴァではアスカは大人になりレイは人になる。だから彼女たちの「ファリックガール(ペニスをもつ少女)」としての無垢さが失われてしまっている。

特にレイの変化はあからさまだ。人としても思いやりや愛情を身につけることが描かれる。このために暗のレイがいるから明のアスカがいる、それもともに病むほどに。この相対化がお互いの存在価値を支え合っている。しかしレイに人間味を与えることで、アスカの存在価値が不明確になり、そしていきなり「殺害」されてしまう。

さらにはレイとシンジの両思いは物語の安定な核となり、セカイ系としての「言葉なき不安」が揺らいでいる。




キレる快楽から運動の爽快感へ


いままでのエヴァは、言葉なき不安、閉塞からセカイの中心へ集中されたキレる発散の快楽だった。これに対して今回はセカイの中心が揺らぐことで集中ではなく、激しい運動性、迫力の快感に移っているのではないだろうか。このような運動性の快感は宮崎駿アニメを思い起こさせる。

これは丁度、オタク第三世代から第四世代に対応する変化。またセカイ系という言語(無時間)コンテンツから、ニコニコ動画という音楽(運動、通時)コンテンツの変化に対応する。すなわちただ物語は疾走し、健全な運動の快感が残る。

これはいままでエヴァを支えてきた第三世代には不満だろう。ニコニコ動画はオタクじゃない!」といったように、「このヱヴァはエヴァじゃない」と言い出すんだろうな。ベタに考えると庵野も大人になり、オタクに与えた不安を償い、作り替えられる最後を、本当の最後として人間としての再生ドラマとして完結させようとしているのかもしれない。というか「ヱヴァ」として別の平行世界ということが強調されているが、そもそももうエヴァを作ることはできないのかもしれない。




「ヱヴァ」は語れない


そう考えるともはや「ヱヴァ」は語るような作品なのか、という疑問がでてくる。ボクは音楽好きなので、評論家なんって音楽の落ちこぼれでろくなものではないと考えてしまう。そもそも音楽コンテンツの評論はとても難しい。

第三世代オタク文化の特徴の一つは、コンテンツと評論を融合させたことにある。評論文化が発達したということだけではなく、コンテンツその物が評論を前提として作られている。制作者がまた評論者でもある。だからコンテンツは評論されやすい構造、すなわち(構造主義的な)言語構造をもった作品を生み出した。セカイ系の一つの特徴とはこのような第三世代の言語構造の骨組みだけが残された究極の形態だったのではないだろうか。

しかし第四世代ではオタクコンテンツはニコニコ動画のように音楽コンテンツと融合し運動的なものになっている。当然、評論との融合などまったく考慮に入れていない。濱野のように、ニコニコ動画アーキテクチャとして評論することはできても、コンテンツを評論することはできない。それは音楽コンテンツの評論が難しいことと同じである。

「ヱヴァ」が運動性を重視して作られているとすれば、もはや語ることは挫かれ、ボクたちはただ楽しめばいい。平行世界のような設定の謎も評論する欲望を想起しないだろう。





参考

■なぜオタクはニコニコ動画を語れないのか 「ネット動画時代の芸術作品」
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20080513#p1
■なぜ「デスノート」はセカイ系ではないのか 「戦闘美少女」は享楽する
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060630#p1
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060701#p1
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