なぜ自由主義は格差を生むのか 

pikarrr2009-07-27

自由主義の楽観的信頼


近代の自由主義経済は、基本的に「社会的信頼」の上に成り立っている。アダムスミスの「神の手」、あるいは同士ヒュームのコンベンション(慣習)など。社会なぜ機能するのか。ホッブズの君主との契約説やロックの自然権説などとは異なり、自由主義者は、人々が社会を存在させようとふるまうことで機能していると考える。これが社会的な信頼だ。

このような古典自由主義の「社会的信頼」があるから大丈夫と考えるのは楽観主義でありそう単純ではないだろう。確かにみなが社会的な慣習(コンベンション)に従いふるまうし、人が同じようにふるまうだろうという信頼関係で成り立っている。しかしそれとともに、信頼関係は家族、友達、母校、地域、国(ナショナリズム)などのように、協力とともに排他も生み、偏在する。その一つが富める者たちが大衆を排他し富を独占する協力関係を形成する「上流層」である。

ハイエクリバタリアン自由至上主義)は、このような古典自由主義のもつ楽観主義を非難する。ただ自由放任にすればよいということではなく、積極的に経済的な自由の制度を作ろうということだ。偏在する信頼関係を分断し、個人個人が自己責任で経済活動に参加し、競争することによって、社会は富、人々へ富は分配される。政府は、富の分配に関わるのではなく、自由な経済活動を可能にする基盤を構築することに関わるべきである。しかし実際に運営された新自由主義ではハイエクが考えたことと異なり権力者に利用されることになる。

政府に対する服従義務の理由をもしも問われるならば、二つ返事でわたくしたちは、そうしなければ社会が存在できないからだと答えます。そしてこの答えは、全人類にとって、明快でわかりやすいものです。あなたがたの答えは、わたくしたちは約束を守るべきだからだというやつでしょう。しかし、或る哲学的理論に馴れるまでは、こんな答えを理解したり有難がったりできる人間がひとりもいないということはもちろんですし、それに、なぜ約束を守らなければならないのか?とたずねられれば、ひとたまりもなくあなたがたは参ってしまうでしょ。P146-147


「市民の国について」 ヒューム (ISBN:4003361954




格差は物理現象か


現実に社会は超格差を生んでいる。世界でもっとも裕福な人々上位千人が保有する純資産の総額は、世界の最低貧困層二十五億人の資産総額の約二倍に相当するという現実がある。しかしこれらの構造を、かつてのサヨクの批判であるブルジョアジープロレタリアートという対立で語ることは困難である。なぜなら各個体の層では自由が達成されている。また権力者の層にも自由の流動性が取り込まれているからだ。政治家は選挙によって選ばれて、企業には競争原理がはたらいている。

ここまで格差が広がっているのに、なにか格差は自然なことのように捉えられている。格差は物理現象であるということだ。経済がグローバル化し、パイが大きければ勝った者への富は増える。さらには自由競争では富は一者集中しやすい。これらは正当な自由主義の競争の帰結であって、勝った者も負けた者も偶然である。このような考えは、自由競争を前提とする経済学によって指示される。しかし現実には経済学が考えるような自由競争には遠い。




上流層の富のネットワーク


自由競争ほど儲からないものはない。誰でも自由に競争に参入できるならば、勝てる保障はない。それが自由主義の本来の姿であるが、より優位な状況を求めるのは必然であり、政府と協力して独占的な優位な体制を造ろうとする。今回のアメリカの金融政策を主導したのは誰か。金融会社から政府に登用され法律をつくった人々である。各個体の層で各個体は自由であることように進められ、権力者の層では各個体の自由が生み出した富を調整し、独占する。

資本主義における資本とは貸し借りである。コンビニでガリガリくんを買うときには誰でも60円あれば買うことができるが、お金の貸し借りはそうはいかない。一般的な金融ローンなら審査も簡単で判断も客観的であるが、大金が動く場合には社会的な信頼や関係が重視される。高額になるほど上流層は信頼関係の排他的ネットワークを形成して富を独占する。




自由競争は下流層で進む


自由主義では二つ自由が進められる必要がある。一つは各個体の自由である。各人は経済活動の自由をもち競争を行う。このためにはただ自由放任ではだめで全体の秩序はいかに保つのかという問題がある。だからもう一つの自由は全体の秩序における自由、すなわち権力者層の自由度である。状況に合わせて制度を変更しつつ、また制度を作る人々を入れ替え、流動性を持たせる。

実際の自由主義経済での自由は個体の層、特に下流層から進む。たとえば現代なら派遣である。彼らはもっとも自由競争とそれに伴う効率化にさらされている。それに比べて正社員は既得権益として自由競争から守られている。そしてもっとも自由化が進まないのが、権力者の層である。権力者の層にはその上の層はないのだから自由を強制する力が働きにくい。数少ない超・階級同士の協力関係は維持され、下からは見えない。

確かに超・格差には物理現象の面があるだろう。経済のグローバル化が富の偏在を広げえいる。しかしその根底には、下流層での自由競争と、上流層での自由競争の格差という権力構造が働いている。そしてグローバル化がいままで以上に権力の偏在を増幅させている。



IMF国際通貨基金)の本来の目標は、世界の安定性を高め、景気後退の脅威に直面する各国が景気浮揚策をとる資金を確保することだったが、IMFはこれらの目標を追求するだけではなく、金融界の利益をはかっているのだ。つまり、IMFが掲げる目標はただいに矛盾していることがしばしばあるのだ。

あまりにも単純な自由主義イデオロギーを前面に押しだし、その陰に隠れて「新たな」使命にしたがって仕事をしていたのだ。・・・世界経済のために働く機関が、世界の金融界のために働くことになったのだ。資本市場の自由化はグローバルな経済の安定には寄与しなかったかもしれないが、ウォール街のために広大な市場を開拓したことは間違いない。

IMFは金融界の視点やイデオロギーとともに問題に取り組んだのであり、金融界の視点やイデオロギーは当然のことながら金融界の利害と密接に結びついていた。すでに指摘したように、IMFの幹部の多くは金融界出身であり、そしてその多くはその利益にために十分に働いたあと、金融界で給料のいい仕事についたのである。・・・副専務理事のスタンリー・フィッシャーは、IMFを辞めるとすぐに、シティバンクの参加にもつ巨大金融会社シティ・グループの副会長になった。シティ・グループの経営執行委員会会長はロバート・ルービンだった。財務長官として、IMFの政策で中心的な役割を果たした人物である。フィッシャーは言われたことを忠実に実行して、十分にその報酬を得たというわけだろうか。P294-296


「世界を不幸にしたグローバリズムの正体」 ジョセフ・E. スティグリッツ  (ISBN:4198615195

パワー・エリートには、企業だけではなく社会全体を結ぶ管理者としての務めもあるのだ。トップに立つ人々の社会は互いにつながっており、その範囲は財界、金融界、政界、軍産複合体、芸術界、思想界といった重要な権力集団全体にわかっている。じっさい、このようなつながりは、富と地位と並んで、スーパークラスの一員であることを示す顕著な特徴となっている。このつながりをたどっていくと、ありとあらゆる種類の集団が連鎖的に結びついていることがわかる。このようなつながりがあれば、個人間の壁はなくなり、必要なときに必要な人物に働きかけられるので、きわめて効率よく最高レベルの仕事が進められ、同時に自分の地位も維持できる−なぜなら、そうした最上層部の人脈は既得権益として厳重に保護されているからである。P106


「超・階級 スーパークラス」 デヴィッド・ロスコフ (ISBN:4334962076

不平等と不公平に関する議論がもっともレトリックと利己心に彩られるのは、経営トップの報酬が話題になるときである。この問題はいま、スーパークラスと彼らが作りあげたシステムを解明するもっとも有力な手がかりとなっている。

アメリカの企業トップの報酬は近年急激に上昇している。支払われる額は、一九九三年から比較すると四倍以上に跳ねあがり、現在、平均的な大手企業CEOの手取り収入は、彼らが雇っている従業員の平均的収入の三百六十四倍にも達している。・・・CEOがその地位を退いても金の流れは止まらない。

富を権力の結びつきがより顕著にあらわれているのが取締役会の役割である。取締役を任命するのはたいていがCEOであり、彼らの地位は多くの重要な意味でCEOの考え次第た・・・取締役会のメンバーが、「広い人脈を持っている」−つまり他の複数の企業の取締役を兼任している−企業はCEOに高額報酬をあたえる傾向が強いという。つまり、何人ものCEOから称賛される、もっとも人望ある取締役は、もっとも「気前のよい」取締役であるということだ。

・・・エコノミスト誌によれば、「経営者が受けとった巨額報酬の大部分は株主が投資額相当の見返りを手にしているという意味で、業績に見合うものだった」・・・ところが最近の研究や事例によれば、経営者の報酬は、どうひいき目にみても、あまり業績と関係がないようなのだ。P151-156


「超・階級 スーパークラス」 デヴィッド・ロスコフ (ISBN:4334962076


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