セカイ系権力とパンデミック世界

pikarrr2009-08-12

ミクロな転移点


だれにも転移点というのがある。自らはコントロールできず気になってしかたがなく、価値観の基準になってしまう。このどうにもならなさ故に反抗的にふるまってしまいがちな愛憎のつながりである。たとえば子にとっての親。ときに反抗期をすぎ大人になる過程では親は強力な転移点になる。自立した社会生活の中でさまざまな場面で親のまなざしを感じ、判断基準となり浮上する。しかし直接、親から価値を押しつけられることには反抗する。それは親を排除するのではなく、すでに内面化されついてまわるまなざしからの圧力への抵抗であるわかっている。だからこそ「自我理想」とのギャップに苦しむ。

このような転移点は親だけではない。たとえばライバルという存在はあからさまな対抗心ではなくても、さまざまな価値の判断場面で、彼ならばどうする、彼にはじないように、などのように知らず知らずに考えてしまっている。あるいは彼の行動の一喜一憂が気になる。ひとは生きていくなかで、誰もが転移点とつながり、しばられている。ボクがミクロなコンテクストというとき、このような卑近な転移点との関係のなかで価値を獲得する状況をいう。




クレオパトラの鼻」から「無名の鼻」


NHKスペシャル日本海軍400時間の証言」http://www.nhk.or.jp/special/onair/090809.html)で太平洋戦争において絶大な権力を持った海軍・軍令部の元メンバーが戦後語らった海軍反省会が紹介されていた。そこで語られるのはわずかな上層部の密室で行われた卑近な状況である。ある幹部が自らの立場を誇示するため、ライバル関係の対立からなど、密室の卑近なエゴが絶対的な命令としてマクロへと伝達されていき、開戦を決定し、特攻隊などの無謀な作戦を実行させた。ここにあるのもセカイ系権力」だろう。軍事下という一元的な価値のもと社会が統制されることで、上層部のミクロの私惑がマクロへと短絡されて多大な影響をあたえてしまう。

戦争を特定の人物の責任にするということではないが、歴史は多くにおいて、マクロな分析ではとらえられないミクロな私惑により決定されている。クレオパトラの鼻がもう少し低ければ歴史はかわっていた」ということだ。ここでいうのは偶然性ではなく、クレオパトラに魅せられた権力者の思惑が歴史を動かしたということだ。

しかしクレオパトラの鼻」がマクロへ影響したとしても近代の戦争ほどではないだろう。近代になり、社会がますますグローバルに密接につながる資本主義社会において、クレオパトラの鼻」はより大きな影響力をもち、さらにはクレオパトラや軍幹部のような顔の見える権力者ではなく、もはや社会的責任を持たない「無名な鼻」へとかわっている。

特にグローバルに経済が結び付いた現代は、卑近な思惑は市場経済をとおして敏感に影響をあたえて、地理的に離れた人々の生活に影響する。昨年はさらにこのような世界の「小ささ」を露わにした年だったかもしれない。豚インフルエンザは最初、メキシコの小さな村の養豚場の不衛生さだったとも言われる。またエネルギー高騰、そしてサブプライムから世界不況。パンデミックな社会であり、ミクロな思惑が簡単にマクロへ短絡してしまう。

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