マクロコンテクストの誕生(仮)

統計学という思想体験


ボクは以前、統計を集中的に学ぶ機会があったが、いまもボクの思考を左右するほどの強烈な思想体験だった。簡単にいってしまえばこの世界は統計でできているということだ。いかなる現象も統計的にみれば必然なのである、と考えさせられるほどに統計手法は世界を露にする。そこに影響するいくつかの原因があり、それぞれの影響度がわかれば、結果は推定できる。そして統計を学ばなくても現代の社会の基本は統計思想の影響のもとに設計されている。それが統計的であるというよりも、社会はそれを前提に設計されているということだ。




「全体の中の一部であることを知れ。」


たとえば大きな駅で切符を買うとき列に並んで待って買う。あるいは街の昼食どきは込みあってならばなければならない。しかしなぜ並ばなければならないのだろうか。勝手に割り込んではなぜいけないのだろうか。なぜみな順番に並ぶことを当たり前としているのだろうか。

当然これは人の本能などではない。来た順番に並んでいる動物など他にいない。これは学校教育、フーコーのいう「生政治」の賜物である。だから歴史的、地域的にみても暗黙に並ぶのはめずらしいことだといえるだろう。

来た順に並ぶということはその人が誰であるかに関係せずただ数である。一人の個人の持つ権利であり、集団が個人を尊重する。一人には一枚のチケットが配られ、そのチケットには質的な差はなく平等であるということだ。すなわち全体の中の個であること、これを訓練、習慣とされる。

「全体の一部であることを知れ。」これが現代の掟であり、倫理である。たとえば経済学的なバージョンは、「各自が得意なことをしろ!」である。これは比較優位といわれ、分業による社会効率化の向上をめざす。さらに各員はかってにやっているようで全員の利益に繋がっている成員であり、各員への尊重へと繋がる。

「全員の一部であることをしれ!」という掟はいままでの社会秩序に、領土に埋め込む掟に比べては緩いものである。すなわち全員の一部であることと自由は対立するどころか、自由の成立条件になっている。




啓蒙思想 マクロコンテクストの土壌


フーコーは16−17世紀と18−19世紀の間に一つの境界を求める。啓蒙思想は17世紀末から18世紀頭に栄えたと言われる。まさにフーコーの境界に位置する。すなわちこの境界は理性主義が希望を持って語られやがて解体されてしまう時代に位置する。

理性主義・・・デカルトホッブズニュートン、ロック、モンテスキュー、ルソー
理性への懐疑・・・ヒューム、スミス、カント

啓蒙思想において理性と科学は協調関係にあった。科学的な世界の正しさは理性によって保証されていた。しかしここに亀裂がうまれたときに、それぞれが独自の道を行くことになる。このポイントになるのがヒュームとカントだろう。ヒュームは理性と科学を分離し、そしてカントは理性を救った。すなわち新たなに理性を救う超越論的哲学を生み出す。それとともに哲学はもはや知の主流ではなくなった。

科学は理性と決別する道を進む。それとともに新たな人間像を生み出す。これは、「全体の中の一部としての人間」である。理性は「平均」に生まれ変わる。この平均というときに、もはや決定論から解離している。あるのはただ量化された人間像である。効用論、統計学、人口調査、道徳科学、優生学功利主義、経済学、社会学・・・。

フーコーの境界、17世紀と18世紀はこのような人間像の変革、まさに主流は全体の一部としての人間像の登場である。ここではもはや理性を担保する哲学は重要な学問ではなくなる。フーコーが明らかにするのは、人間を考える上で重要なのは哲学ではなく、人間科学の歴史なのである。いかに新たな科学的な人間像が作り出されたのか。それは理性でもなく、決定論でもなく、統計学的な人間である。人間の法則とは、物理学ではなく、統計学である。人間全体の中で現れる法則性である。新たに発見されたマクロコンテクストである。




社会の統計化


ボクたちがいかなる社会には住んでいるかといえば、一番には「統計化された社会」に住んでいるということだろう。それはあまりに深く入り込みリアリティを形成しているために気が付かない。

前提として社会は標準とそこからの偏差でできている。異常は偏差が大きいことである。質的ではなく量的な違いでしかない。それに先立つ啓蒙主義の理性にかわり、量的な正常(標準)が基本になる。理性で想定された「正しさ」は偶然性にさらされて、たまたまそうである標準に代替されて、解体されているすべては偶然である。私は多くのひとつでしかない。さらにはこの世界には正しさも、また意味さえもないところまでいきつく。その極限の表現者ニーチェであった。

このようなマクロなリアリティを保証する根底には、知られていないが社会の正規分布がある。いかなる人間的特性も正規分布に従うという前提である。正規分布に従うことが全体(マクロ)として扱うことができる統計上の大前提であるからだ。たとえば身長の分布は正規分布に従う。そして性格的なこともマクロコンテクストでとらえるとき、そこに正規分布が暗黙に前提とされているのだ。

たとえば引きこもりなどを一つの社会的な異常性と考えて、また一定数発生する現象と考えるとき、引きこもりには「微小な原因」の集まりであり、それぞれが正規分布に従うと考えられている。相関関数で表せる。現代では当たり前であるこのようなマクロ思考は、19世紀に社会に押し寄せたなんでもかんでも計測しようという「数字への熱狂」の後に浸透していったものである。

IQの平均値は100であり、85–115の間に約68%の人が収まり、70–130の間に約95%の人が収まる。右図のように、IQは100を中心として山型(ベルカーブ)に分布する(正規分布)。ただし、従来のIQを使用する場合は、必ずしも綺麗な分布ではない。

ウィキペディアWikipedia)』知能指数




人口管理技術としての資本主義


マルクスは、資本主義は決して必然ではないといった貨幣交換を基本とする市場経済はとても不安定なもの=物神性によって成り立っており、いつか破綻し、「自然な」社会になると考えた。それがマルクス社会主義である。実際、社会主義とはいかなるものかはマルクスは明確にしていない資本主義の不安定さの解体の後の安定、当然向かうべき経済社会と位置づけただけである。

しかし資本主義には本当に必然性はないのだろうか。これだけの大量の人々が秩序をもって生活するために他にいかなる社会システムがあると言うのだろうか。

マルクスの物神性という超越論にかけていたのは、習慣である。そのようにふるまっていること、その環境が経済を支えている。このような社会生活にそして構築された環境に深く根ざした経済が恐慌で寝覚めるような虚像であろうかまたマルクスが的確に指摘した資本主義の特徴、物象化、人と人の関係が商品と商品の関係に代替されることは、疎外であるとともに、まさに平等と自由の原理である。

人が「全体の一部として扱われる」というマクロコンテクストは、大量の人々が秩序を持つための必然である。人々がマクロコンテクストを自覚し、社会がマクロコンテクストによって設計されることが、これだけの混沌な社会を自律的な秩序ある社会として成立させているのだ。

病理的なものという概念は、一見病気そのものと同じくらい古くからあるようだが、実は1800年より少し前に、本質的な変容を経験しているのである。この頃はじめて、疾病は身体全体にではなく個々の器官へと関連づけられるようになり、病理学は病気の人ではなく不健康な器官の研究となった。・・・ここまでは、正常は病理的という第一の概念の対概念として定義される二次概念だったのである。だが、コントがブルセの偉大な「原理」と呼んだものによってこの概念は逆転する。病理的なものは、正常なものからの偏差として定義されたのである。あらゆる変異が正常状態からの変異として特徴づけられた。コントの考えでは、ブルセの原理は連続性の原理を完成した。・・・この「原理」の二つの部分を書き留めておこう。(a)病理的状態は正常な状態と質的に変わらない。(b)正常なものは、そこから偏差が分岐する中心点である。

・・・コントは、「ブルセの法則はあらゆる変化を正常な状態へ従属させる」と、はっきり書き残している。ブルセが生理学に関してのみ述べた原理は、「知的・道徳的諸機能」へと拡張されねばならず、・・・やがては社会の全研究に適用されるべきものなのである。P243-245


「偶然を飼いならす」 イアン・ハッキング (ISBN:4833222744